2008年12月4日(木)権威と力に満ちた主(ルカ4:31-37)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

福音書が記されたのは、イエス・キリストが権威と力を持った救い主であることを証しするためです。もちろん、それは単なる情報の提供ということではありません。それを読んだ人がその情報を通して、イエス・キリストを自分の救い主として心から受け容れることを願って記されたものです。
もちろん、信じるということは、何でもかんでも信じるということではありません。知らないものを信じるとすれば、それはただの盲信に過ぎません。そこには信じるに足る情報が必要なのです。
しかし、すべての情報を疑い始めたとすれば、これもまた信じることなどできなくなってしまいます。あるいは、情報は情報として受け止めるだけで、ただの知識に留まっているとすれば、それもまた信仰とは言いがたいものです。
きょう取り上げる聖書の箇所から、いよいよイエス・キリストの御業が記されます。そこから福音書記者がわたしたちに何を語りかけようとしているのか、注意しながら読み進めたいと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章31節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

先週と先々週の二回にわたって取り上げたのは、イエスの育った故郷ナザレでの出来事でした。そこにはある安息日にイエスがおこなった説教とナザレの人々の反応が記されていました。

舞台は再びカファルナウムに移ります。「再び」という言い方は変かもしれません。というのは、ルカによる福音書がカファルナウムでのイエスの具体的な活動について記すのは今日取り上げた箇所が初めてだからです。
しかし、先週学んだ個所に「『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」というイエスの言葉が記されていました。これは明らかにカファルナウムでイエスが様々な活動を既に行なっていたことが前提とされています。

今日取り上げる箇所は、ルカ福音書の中で最初に記された奇跡の業です。しかし、これがイエスの行なった最初の奇跡と考える必要は必ずしもないでしょう。とにかく、ルカによる福音書は4章14節で、荒野の誘惑に打ち勝ったイエスが、”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られ、その評判が周りの地方一帯に広まったということを記しています。そして、諸会堂で教えられるイエスの教えが、みんなの尊敬を集めたことを続く4章15節で報告しているのです。

その教えの具体的な内容の一つは、ナザレの会堂でなした預言者イザヤ書の解き明かしでした。今日取り上げたカファルナウムでの出来事を記す記事にも、まず、イエスが解き明かすメッセージに、人々が驚きを感じたことが報告されます。具体的にどんなことを教えたのかは記されませんが、ナザレでの反応とは似ているようで違います。カファルナウムの人々はイエスがヨセフの子であることに驚くのではなく、イエスの言葉から感じ取れる権威に驚きを感じたのです。

ところが、その人々の驚きを奪い去ろうとする事件がおこります。汚れた悪霊に取りつかれた男が、大声で叫びだしたのです。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

悪霊にとりつかれた人、というと何だかとても薄気味悪く、一目でそれとわかるようなイメージを持つかもしれません。しかし、ルカによる福音書には、その男の外見については何も記していません。その人が他の人と違っている点をあえて挙げるとすれば、イエスがおっしゃった言葉に反応して、「投げ倒された」という点だけです。いきなり大の男が投げ倒されるのを見たらびっくりするでしょう。それも、誰かがこの男を投げ倒したとは思えないのですから。

しかし、それも見る人が見れば、偶然躓いて倒れたに過ぎないと思った人もその場にはいたかもしれません。

そう思うと、この場面にいきなり登場するこの男は、一見して悪霊にとりつかれた男なのではなく、普通に会堂にやってきて、普通に礼拝を守っていたのかもしれません。

この男の言った言葉を聞いてみましょう。この男は言いました。

「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

この言葉を悪霊にとりつかれた人の言葉だと言う偏見を抜きにして考えてみると、それほど特別の言葉でもないように聞こえます。今のこの世でも、これと同じような発言は普通に聞かれます。

「キリスト教なんて自分には関係ない、ほっといてくれ」

誰もが口にするような言葉、しかも、特別に鬼のような形相の人でもない人が口にするような言葉を、ルカによる福音書は、悪霊にとりつかれた人の言葉としているのです。
裏を返せば、神に敵対し、神の遣わす救い主を受け容れようとしない心のかたくなさこそ、悪霊の仕業なのです。それは必ずしもおどろおどろしい仕方で人間に襲い掛かってくるものではないのです。あたかも理性を働かせ、常識的にみえるような仕方で、「キリスト教なんて自分には関係ない、ほっといてくれ」と人間に結論付けさせるのです。

しかも、この男の場合、イエス・キリストのことを「正体は分かっている。神の聖者だ。」と言っています。

イエス・キリストに対する知識がないわけではありません。知識と行動とがバラバラなのです。新約聖書のヤコブの手紙2章19節にこんな言葉があるのを思い出します。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」

悪霊は神が唯一だと知っています。悪霊はイエスは神から遣わされた聖者だと知ってます。しかし、それ以上の事はないのです。
同じようにこの世では「イエスは愛の人だ」「イエスの倫理観は素晴らしい」と言う人は大勢います。その発言は間違いではないでしょう。しかし、そこに人間を留まらせてしまうところに聖書は悪霊の働きを見ているのです。

しかし、その悪霊に対してさえも権威と力をもっていらっしゃる救い主がいらっしゃるのです。カファルナウムの人々はイエス・キリストの教えと御業の中に、救い主としての権威と力とを見たのです。