2008年11月20日(木)きょう実現した聖書(ルカ4:14-21)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストが解き明かしてくださる聖書はとても魅力に富んでいます。いったいどこにその魅力があるのかと考えると、それは今まさに生きて働いている神の言葉として聖書を解き明かしてくださっているからです。
わたしたちが聖書の言葉を読む読み方は、神が昔してくださったことは何か、あるいは、将来神が約束して下さっていることは何か、という視点からです。そして、聖書が記す過去の出来事から今生きている自分の生き方を考えたり、将来の約束から今の生き方を考えたりします。あるいは、今の自分の行動は聖書の教えに合致しているだろうか、そういう視点から聖書に接することが圧倒的に多いものです。
しかし、イエス・キリストは過去の出来事でも、将来の約束でもない聖書の読み方をわたしたちに示してくださいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言してくださるのです。このような聖書の読み方は、ただそれを成就することのできるお方、イエス・キリストだけが示すことができるものです。そうであればこそ、キリストの聖書の解き明かしにはワクワクするような魅力があるのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章14節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
荒れ野でのサタンからの誘惑に見事に打ち勝ったイエス・キリストは「”霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とルカによる福音書は報告します。この場面で「”霊”の力」に満ちたキリストを強調して描くのはルカによる福音書だけです。キリストは洗礼をお受けになったとき聖霊が鳩のように降ったお方です。そのキリストは聖霊に満ちてヨルダン川を後にし、”霊”の導きのままに荒野でサタンからの誘惑をお受けになったのです。そして今、サタンの誘惑を見事に打ち破ったキリストは同じ”霊”の力に満ちてガリラヤにお帰りになったのです。
ガリラヤへ戻られたイエス・キリストの様子をルカによる福音書はまず短い言葉で要約します。
まず、イエスの評判がガリラヤのみならず、その周辺にまで及んでいること、そして、イエスの活動はあちらこちらの会堂でなされたということです。どのような評判が広まったのか、まだこの段階では明らかにされていません。それは福音書を読み勧めるに従って、読者にはだんだんと明らかになるからです。
「イエスは諸会堂で教えらた」という報告は、次に続く出来事とあわせて読むときに、その意味の重さを理解することができます。次に記される記事には「いつものとおり安息日に会堂に入り」とありますから、「イエスは諸会堂で教えらた」とあるのは、ある一日の出来事を語っているわけではありません。イエス・キリストは当時のユダヤ人にとって礼拝の場であった会堂を大切にされ、いつものとおり安息日に会堂へ行かれたのです。それは、ただ単に安息日には人が会堂に集まるからという理由からではなかったでしょう。イエス・キリストご自身、神への礼拝を大切にされていたからです。
ルカによる福音書はイエス・キリストが「皆から尊敬を受けられた」と記しています。それは直前の文から考えて、イエス・キリストが会堂で行なった教えのためであると考えられます。しかし、その教えが、礼拝の生活とは無関係のところでなされたものであったとしたら、同じように皆からの尊敬を受けたでしょうか。
イエス・キリストの教えは礼拝の場でなされた教えです。神を心から敬い、神を心から愛し、礼拝するイエス・キリストであるからこそ、その教えは説得力があるのです。
さて、ルカによる福音書は、数ある会堂での出来事の中から、故郷のナザレで起ったことを選んで書き記しています。
その日の礼拝でイエス・キリストがお読みになった聖書の箇所はイザヤ書61章1節2節の言葉でした。もちろん、当時の聖書は巻物に書かれていて、今の聖書のようにページや章や節が振られていたわけではありません。
その開かれた巻物にはこう記されていました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
ルカによる福音書は、このイザヤの預言書に預言されている人物、「主の霊がわたしの上におられる」と語る人物について、既に見てきたように伏線をはっています。
聖霊が鳩のように降ったイエス、荒れ野を霊に満たされて歩かれたイエス、霊の力に満ちてガリラヤにお戻りなったイエス、そのイエスが手渡された巻物に「主の霊がわたしの上におられる」と記されているのをお読みになったのです。
もちろん、その時会堂に居合わせた人たちにはそれが誰のことを言っているのかわからなかったことでしょう。預言者イザヤ自身のことを言っているのか、もしそうだとすればそれは既に過ぎ去ったことです。それともこれからやってくる誰かのことを言っているのか、もしそうだとすれば、それはまだ実現していない預言です。
「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とルカによる福音書は人々の期待を記しています。イエス・キリストがこの預言の言葉をどう解き明かしてくださるのか、人々は次にイエス・キリストの口から語られる言葉を期待して見守っていたのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」
イエス・キリストこそ人々を解放し、自由にし、主の恵みの年を告げ知らせてくださるお方なのです。
「主の恵みの年」というのは旧約聖書に定められたヨベルの年を思い起こさせる言葉です。ヨベルの年にはすべての負債が赦され、奴隷が解放される恵みの年、解放の年なのです。
もちろん、この福音書全体を読めば明らかなとおり、イエス・キリストがもたらして下さるのは文字通りの負債の帳消しでもなければ、奴隷の解放でもありません。そうではなく、罪という負債からわたしたちを解放し、罪の奴隷と言う束縛からわたしたちを自由にしてくださるお方なのです。
イエス・キリストは、きょうという日にこの聖書の言葉を実現してくださるお方です。