2008年11月6日(木)デビュー(ルカ3:21-38)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
本を読むとき、どこから読み始めるのかというのは人によって違うかも知れません。目次や序文から丁寧に呼んでいく人もいれば、先ずはあとがきから読んでしまう人もいるでしょう。もしデビューしたばかりの人の作品であれば、わたしならとりあえずは著者のプロフィールから目を通します。その人が誰なのかということはやはり気になります。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所は、言わば、イエスのデビューと言ってもよいかもしれません。確かに生まれる前からイエスが誰であるのかと言うことは、ルカによる福音書にはたくさんのことが記されていました。生まれたときにも、また12歳のときのエピソードにも、イエスがどんなお方であるのかについては記されて来ました。
しかし、今までの記事とは違って、きょう取り上げる記事は、イエスの公の宣教活動がここから始まるという出発点の記事です。その記事の中でイエスというお方が福音書の読者に対してどういうお方として紹介されているのかということはとても興味深いことです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 3章21節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、マタト、レビ、メルキ、ヤナイ、ヨセフ、マタティア、アモス、ナウム、エスリ、ナガイ、マハト、マタティア、セメイン、ヨセク、ヨダ、ヨハナン、レサ、ゼルバベル、シャルティエル、ネリ、メルキ、アディ、コサム、エルマダム、エル、ヨシュア、エリエゼル、ヨリム、マタト、レビ、シメオン、ユダ、ヨセフ、ヨナム、エリアキム、メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ、エッサイ、オベド、ボアズ、サラ、ナフション、アミナダブ、アドミン、アルニ、ヘツロン、ペレツ、ユダ、ヤコブ、イサク、アブラハム、テラ、ナホル、セルグ、レウ、ペレグ、エベル、シェラ、カイナム、アルパクシャド、セム、ノア、レメク、メトシェラ、エノク、イエレド、マハラルエル、ケナン、エノシュ、セト、アダム。そして神に至る。
今お読みした箇所は、イエス・キリストが洗礼をお受けになったという記事とその洗礼を受けられたイエスからさかのぼって人類の祖であるアダムに至るまでの系図が記されています。
まず、イエスが洗礼をお受けになった記事から見てみましょう。イエス・キリストが洗礼をお受けになる場面を具体的に描いているのは最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカの三つです。洗礼の様子を最も詳しく伝えているのはマタイによる福音書で、逆に最も簡素に記しているのはルカによる福音書です。ルカによる福音書には、イエスが洗礼を受けたのは洗礼者ヨハネからであったという記事すら省略されています。もちろん、前からの続きを読めば、イエスに洗礼を授けたのは洗礼者ヨハネ以外の誰でもありません。しかし、ルカによる福音書は敢えて洗礼者ヨハネの姿を場面から消し去って、イエス・キリストにスポットライトを当てています。
それからもう一つ、他の福音書の描き方とは違っている点があります。ルカによる福音書には洗礼を受けられたあと、祈っているイエスの姿が描かれます。
ルカによる福音書が祈る姿のキリストを描くのは洗礼の場面だけではありません。ことあるごとに祈る姿のイエス・キリストが描かれます。民衆たちからの人気が高まるときに、わざわざ人里離れた所に退いて祈っておられるイエスの姿をルカ福音書は記します(5:16)。十二人の弟子たちを選ぶときにも、その前の晩は夜を徹して祈られました(6:12)。最後、十字架の場面でも「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈るイエスの姿が描かれます(23:46)。同じルカが書いた使徒言行録では、この祈るイエスの姿を受け継ぐかのように、生まれたばかりの教会が、ことあるごとに祈る姿が描かれています。
そのようにルカが記した二つの書物、ルカによる福音書と使徒言行録の全体を通して考えると、イエス・キリストの洗礼の場面に祈る姿のキリストを描いたことは決して意図しない偶然ではありません。それはイエスに従う者たちの模範であり、のちの教会が見習うべき姿勢なのです。ルカ福音書はこの世にデビューされたイエス・キリストを祈りの人として紹介しているのです。
さて、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来たのは、祈っているイエスの上にでした。
洗礼者ヨハネはすでに自分の後からおいでになる方について、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:16)と民衆に告げました。聖霊がイエスの上に降ったということは、このお方こそ、聖霊と火で洗礼をお授けになるお方であることを示すものです。
実際、ヨハネによる福音書が記すところによれば、洗礼者ヨハネは次のように証ししています。
「わたしは、”霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:32-34)
洗礼者ヨハネから洗礼をお受けにけになったイエスこそ、聖霊をもって人々に洗礼を授けることのできるおかたなのです。
さらに、聖霊が降ると言う出来事に続いて、天からの声がこう告げるのが聞こえました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22)
ここではイエスと父なる神との特別な関係が言い表されています。まず、何よりもイエスは「神の子」であると宣言されます。しかも、その子は「愛する子」であり、神の「心に適う者」なのです。それは預言者イザヤが預言した「主の僕」の姿を思い起こさせる言葉でもあります(イザヤ41:8、42:1)。
そのように紹介されるイエス・キリストですが、人間イエスとしての年齢はおよそ三十歳です。そして、その系図をさかのぼれば、最初の人類アダムにまで至ります。
もっとも、聖書によれば人は誰でも皆アダムにさかのぼるのですから、この系図は蛇足のようにも思われます。けれども、ルカ福音書が敢えてアダムにまでさかのぼって系図を記しているのは、まさにイエス・キリストがイスラエル民族だけの救い主ではないことを物語っているのです。イエス・キリストは世界の救い主なのです。