2008年10月16日(木)荒れ野で叫ぶ者の声(ルカ3:1-6)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

年代の数え方や表し方にはいろいろな方法があります。いわゆる西暦はこの二千数年間、通し番号になっているために、それが何年前のいつの出来事かと言うことを理解する上では、大変便利なシステムです。
しかし、その時代を生きた人にとっては。通し番号で「何年」といわれるよりも、「誰それが総理大臣をしていた時代」とか、「テレビでこう言う番組をやっていた時代」と言われたほうがピンと来る場合があります。
イエス・キリストがいよいよ公の生涯をはじめられる様子を描くルカ福音書は、その時代を表すために実に的確な人物の名前を挙げています。その時代を知らないわたしたちにとっては、誰の名前が記されていたとしてもピンとこないかもしれませんが、その時代の人々にとっては、これほどその時代をイメージできる人物名は他になかっただろうと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 3章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

ルカによる福音書は他の三つの福音書と比べて、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて公に活動を開始される年代を非常に丁寧に書き記しています。
まずそれは「皇帝ティベリウスの治世の第15年」であると記しています。この一言がしるされているお陰で、イエス・キリストの活動がいつの時代の出来事であるのかということを非常に明確に年代付けることができます。

ローマ皇帝ティベリウスという人は、イエス・キリストが生まれた時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝です。皇帝としての在位は紀元14年から37年までです。その在位の第15年ということですから、ルカ福音書がこれから書き記そうとしている出来事は、おおよそ紀元30年前後のことと言うことになります。
「おおよそ」といったのは、ルカ福音書が「皇帝ティベリウスの治世の第15年」という年代をどう数えたのか、二つの理由で正確なところがわからないからです。先ず一つの問題は皇帝アウグストゥスとの共同統治の時代を含めて15年といっているのか、正確なところが分かりません。もう一つの問題は、共同統治の時代を含めないとした場合、皇帝アウグストゥスの死後、直ちに第1年を数えたのか、それとも、翌年から第1年としたのか、定かではないからです。
いずれにしても、ルカによる福音書は3章23節でイエスが洗礼を受けたのはおよそ30歳の時であると記していますから、皇帝ティベリウスの治世第15年がおよそ紀元30年であるという推測は、そう大きく外れては居ないはずです。おそらくは紀元30年よりも少しだけ前の時代だったと思われます。
ルカによる福音書はこの皇帝ティベリウスのほかに、政治的な統治者の名前を4名、ユダヤの宗教的な代表人物の名を2名挙げています。
この挙げられた人物の中で特に、ユダヤ総督ポンティオ・ピラトと、ガリラヤの領主ヘロデと、大祭司カイアファとの3人は、イエス・キリストを処刑する裁判に深く関わった人物でもあります。

その時代に生きていた人が聞いたなら「あぁ、あの時代のことか」とすぐに分かる書き方で、ルカ福音書は洗礼者ヨハネの登場する時代を読者に紹介します。

ルカ福音書は洗礼者ヨハネの活動の開始を「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と書き記します。
神の言葉がいったいいつからイスラエルのうちで聞かれなくなったのでしょうか。それについては異論もあるかもしれませんが、少なくとも旧約聖書最後の預言者マラキの預言を最後に権威ある神の言葉はイスラエルの間で聞かれることがなくなってしまっていたと思われます。
そういう意味で「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と報じるルカ福音書の言葉は衝撃的なニュースを伝える言葉です。久しい間、預言者の口を通して神の言葉を聞く事がなかった民とっては、まさに神がその民を顧みてくださる時代が再び到来したと思えたのです。
その洗礼者ヨハネの活動は、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝える活動であると紹介されます。ヨハネが延べ伝えたものは、メシアの到来に先立って行う徹底的な悔い改めでした。その具体的な教えについては後日、取り上げたいと思います。

さて、突如、ヨハネに降った神の言葉によって始まった徹底した悔い改めの運動でしたが、しかし、そのことは預言者イザヤによって既に預言されていた出来事だったのです。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

ヨハネの活動は、メシアそのものではありませんでした。来るべきメシアを迎えるために人々を整え、導くための運動です。それは荒れ野で叫ぶ者の声なのです。

「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにする」とはまるで王を迎える道沿いの民の姿を思わせます。預言者イザヤがここで言おうとしていることは、メシアを迎えるために文字通り道路を整備せよと言うことではもちろんありません。それがまさしく洗礼者ヨハネが宣べ伝える悔い改めに他なりません。
もとより、聖書が指摘する罪は人間の力によって解決できるものではありません。解決できないからこそ、救い主メシアを神は遣わされるのです。洗礼者ヨハネは人々に罪から自分で救われよと命じているのではありません。そうではなく、罪を認め、神の前に真摯に罪を悔い改めることです。そうすることが、救いの恵みをいただく最善の備えなのです。