2008年10月2日(木)多くの人の心にある思い(ルカ2:33-40)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

西暦では今年は2008年ですが、この西暦以前のことを日本では「紀元前何年」という言い方で呼んでいます。英語ではBCという略号が使われていますが、その意味するところはbefore Christ、つまり、「キリスト以前」ということです。キリストの誕生を境にそれ以前とそれ以後を区別する歴史観です。
このイエス・キリストの登場と共に分けられるのは歴史ばかりではありません。人々の心も、ふるいに掛けられるように、キリストによって峻別されていくのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 2章33節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。…あなた自身も剣で心を刺し貫かれます…多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから7年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

今日取り上げた箇所は、神殿を訪れたイエスの家族に起ったエピソードの続きです。本来ならば先週取り上げた22節から今日の箇所のおしまいまでを一度に取り上げるべきだったかもしれません。あるいはシメオンのエピソードと、女預言者アンナのエピソードは別々に取り上げるべきだったかもしれません。しかし、ここでは後半部分を一気に取り上げてしまいたいと思います。

先ずは、老人シメオンが母マリアに語った謎めいた言葉です。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。…あなた自身も剣で心を刺し貫かれます…多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

ここには幼子イエスに対する預言の言葉と母マリアに対する預言の言葉がしるされています。

幼子イエスがやがてもたらす救いについて、シメオンは既に先週学んだ個所で、「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」であると述べました。救いがただイスラエル民族のためだけのものではなく、民族を越えた世界的な広がりを持つものであることを預言したのです。そうした明るい内容の預言の言葉とは対照的に、きょうの箇所で述べられる預言の言葉は、やがて直面する暗い影の部分を指し示しています。

イエス・キリストはイスラエルの人々を倒しもし、立ち上がらせもする、反対を受けるしるしだというのです。あたかも一方では躓きの石のように人々を躓き倒れさせ、他方では家造りらの捨てた隅の頭石のように、信頼する者たちを固く立たせるのです。
ここでシメオンが言おうとしていることは、同じイスラエルの人々について、一度はキリストによって躓き、その躓いた同じ者たちが再びキリストによって立ち上がる、ということではないでしょう。むしろ、キリストに対してある者は不信仰のために躓き倒れ、ある者は信仰によって立ち上がらされる、そういう民を二分するようなお方であることを預言しているのです。
事実、福音書に記されるイエス・キリストに対する人々の評価は二分されています。ある人々はイエスを受け容れてイエスに従い(4:42、5:15)、他の人々はイエスを殺そうとさえ憎むのです(4:29)。万民の救いのために遣わされたメシアですが、そのメシアを受け止める側の人間は必ずしも一つの心で救い主を歓迎するわけではないのです。

またシメオンは、このことが起るのは「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」であると述べます。イエス・キリストに対面する時、人はもはやその心の内の思いを隠しておくことができないのです。神の側に立つのか、人の側に立つのか、キリストの前に立つ時にその心のうちの思いが明らかになるのです。敬虔さを装う思い上がった者の偽善が暴かれ、逆に自分の罪の大きさに打ちひしがれ、神の救いを真に求める者の心が明らかにされるのです。
丁度マリアの歌の中に出てきたように「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、…身分の低い者を高く上げ」て下さるのです。

もっとも、人は多かれ少なかれ、「自分が今立っている」と思うほど、思い上がった考えを抱いているものです。その思い上がった心をこそ、主イエスによって示していただき、へりくだった心で救いを求める者へと変えていただく必要があるのです。

最後に、もう一人の登場人物、女預言者アンナについて取り上げて終わりにしたいと思います。
イエスの家族が清めの儀式のために神殿を訪れたとき、女預言者のアンナに出会います。彼女は7年間の短い結婚生活を送った後、夫に先立たれてしまい、84歳になるまでの長い期間、やもめとして熱心に信仰の道を歩んだ人でした。
ルカ福音書がこのアンナについて記すのは、たまたまそこにアンナがいたからという理由だけではありません。シメオンのように預言の言葉こそ残しませんでしたが、救い主の誕生を心から感謝し、神を賛美した最初の敬虔な女性として描かれます。
こうしてルカによる福音書は、救い主の誕生があらゆる人々によって感謝と喜びをもって受け止められた様子を描きます。先ず初めに名もない羊飼いが、そして老齢の敬虔深い男性が、最後に敬虔な信仰を貫いた女性が、それぞれ生まれて間もないイエス・キリストと出会って神を賛美します。

特に女預言者のアンナはエルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話したとあります。それは素直な信仰の表明です。確かにアンナが見たものは頼りない小さな赤ん坊でしかありませんでした。しかし、アンナはそこに神の約束が果たされことを信仰をもって受け止めたのです。