2008年9月25日(木)今こそ安らかに(ルカ2:22-32)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今日取り上げようとしている箇所は、シメオンの賛歌として知られている有名な箇所です。歌の出だしの二つの単語から、ラテン語ではヌンク・ディミッティス(nunc dimittis)と呼ばれて親しまれている箇所です。様々な作曲家たちがこの詩にメロディをつけています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 2章22節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
今お読みしました箇所には、初めて生まれる男の子をモーセの律法に従って主に捧げようとするイエスのご両親と、その時、神殿で出会ったシメオンという信仰深い老人のことが記されていました。
イエスはヨセフとマリア夫妻にとっては最初の男の子でしたから、旧約聖書出エジプト記13章2節に記された規定に従って主に捧げることが定められていました。ただし、民数記18章15節16節の規定では人間の男の子の場合は銀5シェケルで贖うように定められていますから、子供の奉献と贖いのためにヨセフとマリアは神殿にやって来たということになります。
また、イエスのご両親が神殿にやって来たもう一つの理由は、清めの儀式のためでもありました。旧約聖書レビ記12章によると、男の子を産んだ場合の清めの期間は、汚れのために7日間、汚れから清まるために33日間、合計40日間を必要としました。ですから、きょうの記事はイエス・キリストがお生まれになってからおよそ1ヶ月と10日がたったときの出来事ということになります。
聖書の教えを守る信仰深い家族として、イエスのご両親はこのモーセの律法の規定どおりに、生まれた男の子を主に捧げ、清めの儀式を行なおうとエルサレムの神殿までやってきたのです。
ルカ福音書が記す清めのための献げ物は、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった」とありますから、これはレビ記が記す規定に照らし合わせると、イエスの家族が貧しい家庭であったことが伺われます。なぜなら、普通は一歳の雄羊一匹と家鳩または山鳩一羽が求められているのですが、律法の規定では貧しい家庭で羊に手が届かない場合には、羊に代えて山鳩または家鳩を携えてきても良いことになっていたからです。
貧しい家庭ではありましたが、しかし、聖書の言葉に従う信仰深い家庭でもあったのです。
ちなみにマタイによる福音書では、東方からやって来た占星術の学者たちが黄金をイエスに献げたとありますから、きょう取り上げる箇所の出来事は、東の国の学者たちが訪問する前の出来事だろうと言われています。
さて、神殿にはイエスの家族と同じくらいに敬虔な老人がひとりおりました。その名をシメオンといい、ルカ福音書によれば、シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」…そういう人物でした。しかもその上、主からの約束を受けていて、救い主であるメシアに会うまでは決して死なないと約束されていたのです。メシアに会うまで決して死なないとは何と特別な約束だったことでしょうか。
ただ、長生きすることが約束されていたのではありません。シメオンと同じように長生きをした老人は、この時代に他にもたくさんいたことでしょう。しかし、シメオンだけがメシアに会うことを約束されていたのです。しかも、その日が来るまでは決して死なないと固く約束されていたのです。
そのシメオンがヨセフとマリアを見たときに、その腕に抱かれた子こそが待望のメシアであることを直感します。いえ、ルカによる福音書によれば、聖霊がシメオンとメシアを出会わせたのです。
メシアに出会うとの約束が今や果たされ、シメオンは賛美の歌声を上げます。その歌の出だしが、先ほど番組の最初で紹介したとおり、「ヌンク・ディミッティスス」として知られる歌です。
シメオンは開口一番、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌います。
そこには神の約束に対する厚い信頼と、果たされた約束に対する深い満足感が表れています。死ぬ間際になって人はじたばたとしがちなものです。遣り残した数々のことを悔やんだり、残される家族のことを思って平安な気持ちがかき乱されたりと、平静な気持ちを失いがちです。
しかし、このシメオンにはそうした動揺は微塵も見られません。神の約束が果たされ、平安のうちに世を去ることを受け容れているのです。
もちろん、それには理由があります。シメオンは言います。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
シメオンが目にしたものはやがてメシアとして活躍する小さな赤ん坊だけではなかったのです。その赤ん坊を通して実現する「神の救い」を信仰の目をもって見たのです。
シメオンはイエス・キリストの奇跡の御業も十字架も、復活も何一つとして目撃することはなかったことでしょう。しかし、シメオンには素晴らしい信仰の目があったのです。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」
この言葉は、わたしたちが世を去るときの言葉でもありたいものです。主の救いの約束が必ず果たされることを確信して生涯を過ごしたいと願います。