2008年9月11日(木)天使の伝えたクリスマス・メッセージ(ルカ2:8-14)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスマスのキャロルには天使や羊飼いが必ずといってよいくらい登場します。それはルカによる福音書が描いている救い主の誕生の場面からそのまま採られたものです。
この場合天使が登場するというのは分かるとしても、なぜ羊飼いなのかというのは必ずしも何の説明も要らないほど明らかではありません。確かにたまたま羊飼いがそこにいたからというのもありえないことではありません。しかし、天使たちが伝えた救い主誕生の知らせが、手当たり次第だれにでも良かったとも思えません。
きょうはルカによる福音書から天使が羊飼いたちに伝えた救い主誕生の良い知らせからご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 2章8節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
先週学んだとおり、イエス・キリストが誕生したのは皇帝アウグストゥスが住民登録をせよとの命令を出したときでした。いったいどれくらいの期間を定めて住民登録が行なわれたのか分かりませんが、とにかく一地方の宿屋という宿屋が満杯になってしまうくらいですから、そんなに長期間にわたって行なわれたものとは思われません。短期間のうちに実施されたからこそ、ベツレヘムでは人がごった返して、泊まる場所もないくらいだったのです。
そう考えると、まるでこの騒ぎとはまったく関係のないように、野宿しながら羊の番をしている羊飼いの姿が浮世離れしている仙人のようにも思われます。いったいこの羊飼いたちは皆が住民登録のことで翻弄されている時に何をしているのだろうと素朴な疑問が湧いてきます。彼らには住民登録のことが周知徹底されていなかったのでしょうか。それとも、自分たちには関係ないと思っていたのでしょうか。
実際、ユダヤの世界では羊飼いに対する評価はとても低いものがありました。「地の民」と呼ばれ、蔑まれていたのです。羊は日常生活にも宗教生活にも欠かせない動物でしたが、その羊を世話する羊飼いは普通の人間と同じようには扱われていなかったのです。そうであれば、世間を騒がせている住民登録も、まったく自分たちには縁遠いことのように思われていたかもしれません。世の中がこの住民登録の話題で持ちきりになって、泊まる宿さえもないことで大騒ぎになっていても、彼ら羊飼いにはもともと野宿するしかないのです。
ところでイエス・キリストが生まれた季節がいつなのか、ということは福音書のどこにも書かれていません。それで聖書学者たちは「もし12月であれば、パレスチナは雨季であるために羊の放牧などありえない」と言います。わたしには当時の羊飼いの詳しい暮らしが分かりませんが、羊飼いたちたちが雨季だからといって屋根のある建物で雨風をしのぎながら暮らすことができたとは思えません。たとえこの場面が12月の雨季であったとしても、いつもと同じようにテントのような掘っ立て小屋で生活し、野宿しながら羊の番をするより他はなかったのではないでしょうか。
そのような人間らしい扱いを受けない人々に、救い主誕生の嬉しい知らせが最初に届けられたというのは、決して偶然ではなかったはずです。
王の宮殿にではなく家畜小屋でお生まれになった救い主は、まさに人が人としての扱いを受けることができない罪の世界にこそ遣わされてきたのです。
さて、その羊飼いたちに伝えられた天使のメッセージは次のようなものでした。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
知らせの中心は言うまでもなく「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」と言う部分です。
「今日」という言葉はこのルカによる福音書の中ではくりかえし登場する言葉です。もちろん、それぞれの場面では「今日」という言葉に特別な意味があるわけではありません。しかし、「今日」という言葉を軸に据えてルカによる福音書全体を見渡した時に、「今ここでの救い」…救いの現実性に強調点が置かれているように思われます。
この天使のメッセージ以降、たとえば、イエス・キリストはナザレの会堂で最初に行なった説教で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました(ルカ4:21)。
また徴税人のザアカイが悔い改めの心を表した時に、イエスはすかさず「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃいました(ルカ19:9)。
さらにまた、十字架の上でも一人の犯罪人に対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と告げておられます(ルカ23:43)
それぞれの場面に出てくる「今日」は過去の時点での「今日」ですが、その救いは今なお救いを求める者にとっては「今日」実現される救いに他ならないのです。
従って、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と伝える天使の知らせの言葉は、ルカにとってはただの昔の物語では決してないのです。羊飼いたちが「今日」という日の訪れを聞いたように、この福音書を読む者にとっても「今日」という日がまさに救い主の誕生の喜びを味わう日なのです。
救い主であるメシアの誕生、それは羊飼いたちをはじめとして、民全体に与えられる大きな喜びです。「民全体」という言葉は単にユダヤ民族全体という意味ではないでしょう。後にこの福音書の続編とも言うべき使徒言行録が示しているように、それは全世界のあらゆる民に対する大きな喜びなのです。
なぜなら、その喜びは全人類の救いに関わる喜びだからです。罪の世界というのは人間が人間として扱われない世界です。根本的に人間が人間として扱われない世界には喜びが生まれません。欲望が満たされた時の一時的な満足感はあっても、その喜びは長くは続かないのです。
神から愛される喜び、人から愛される喜び、その喜びを救い主であるイエス・キリストは回復してくださるのです。