2008年8月21日(木)この子の名はヨハネ(ルカ1:57-66)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神の約束を信じるということは、聖書に流れる中心的な教えであると思います。聖書の中に登場する人物たちは皆、神の約束を信じるようにとチャレンジを受けた人々です。もちろん、約束の結末を知っているわたしたちとっては、神の約束を信じることはそれほど難しいことではないように思われます。しかし、当の本人たちにとっては、その約束はしばしば人間の常識をはるかに超えたものであるために、すぐには信じることができないものでした。約束を信じるに当って、数々の試練があり、葛藤があったのです。しかし、その中でこそ信仰を養われ、神の恵みを噛みしめることができたのです。
きょう取り上げるザカリアもまたそうした試練の中で神の約束を信じ、神の恵みに喜びを見出したのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章57節〜66節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
きょうの箇所はザカリア夫妻に約束された男の子がいよいよ誕生する場面です。もっとも誕生の出来事自体はさらりと描かれて、それに続く八日目の割礼と命名のことがより詳しく記されています。
誕生についての記事は57節で「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」と描かれるだけです。洗礼者ヨハネ誕生にまつわる特別なエピソードがあるというわけではありません。ただ、誕生の記事に続いて「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」とだけ記します。
こう書いてしまうとずいぶん素っ気ない話のように感じるかもしれません。しかし、決してそうなのではありません。なぜなら、この二つの節は既に学んだ13節と14節を正確に受けているからです。
天使ガブリエルはザカリアにこう神の約束を伝えました。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」
きょうの箇所はまさにこの約束を受けての展開です。天使の告げたとおりザカリア夫妻に男の子が与えられたこと、そして、ただ男の子が生まれたというばかりではなく、約束されたとおりに喜びが訪れたということです。もちろん、生まれてきた男の子によってもたらされる喜びは、生命の誕生という喜びばかりではありません。これから先、ヨハネが活動するにつれてこの喜びはもっと大きな喜びを人々にもたらします。短く描かれるヨハネ誕生ですが、そこに成就された神の約束をしっかりと覚えなければなりません。
さて、イスラエルでは生まれてくる男の子には八日目に割礼を授けることが慣わしとなっていました。ザカリア夫妻に与えられた男の子にもモーセの律法に従って割礼を授けます。
その時人々はこの男の子に、父親の名前を取ってザカリアとつけようとしますが、母のエリサベトは「ヨハネ」と名づけようとします。エリサベトが「ヨハネ」という名前をどこで仕入れたのか、ルカ福音書には記されていません。特別な啓示によって神から示されたのか、あるいは、口が利けなくなった夫のザカリアから筆談で知らされていたのか、そのところは分かりません。おそらく、男の子が生まれてくるまでの間に、生まれてくる子供の名前のことは二人の間で何度となく話題に上っていたのでしょう。
ですから、母親のエリサベトも父親のザカリアも、慣習に捕らわれずに、御使いが告げたとおりにその子を「ヨハネ」と名づけます。
ところで「ヨハネ」という名前の意味は「主は恵み深い」という意味です。きっとエリサベトもザカリアも、御使いから「ヨハネ」と言う名を知らされたとき、近所の人々が考えたのと同じことを思ったに違いありません。
「親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と。
しかし、誰よりもこの名前の意味を深く味わったのは、当のザカリア夫妻ではなかったかと思います。特に口が利けなくなったザカリアは、ヨハネが生まれてくる時までの間、何度もこのことを思いめぐらせたはずです。
そもそも、ザカリアが口が利けなくなったのは、彼自身の不信仰によるものでした。時が来れば実現するはずの神の約束を信じなかったからです。しかし、それでもなお、神はザカリア夫妻を通して神の救いの業を成し遂げようとされ、ついに約束を果たしてくださったのです。聖書の中に描かれる神は、ただ罪を裁くお方なのではありません。人間の罪のゆえに世界を滅ぼし尽くすお方ではなく、恵みによって人間の罪をも克服し、救いを実現してくださるお方なのです。
ザカリアにとってヨハネが生まれてくるまでの、口の利けない期間は決して短いものではなかったはずです。人々から清く正しいと思われていた自分でさえも、神の約束を疑う弱さを持った罪深い人間であることをいやというほど思い知らされた期間であったはずです。
しかし、ザカリアが学んだことは自分の弱さばかりではありませんでした。それ以上に神が恵み深いお方であることを、口が利けない何ヶ月かの間に何度となく思いめぐらせたに違いありません。
そうであればこそ、ザカリアは口が開いて舌がほどけた途端に「神を賛美し始めた」のです。人間の弱さの中でこそ力を発揮してくださる神をはっきりと知ることができたのです。人間の罪深さの中にあっても、それでも救いを実現へと向けて力強く働いて下さる神の恵みに触れることができたのです。
ザカリアは、天使がそう告げたからではなく、神への賛美と感謝の気持ちをこめて、子供の名を「ヨハネ」…「主は恵み深い」と名づけたのです。神を恵み深いお方であると見出すことができる幸いをわたしたちもいただきましょう。