2008年7月31日(木)主の民を整えるために(ルカ1:5-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間が立てる計画というのは大抵はその計画を立てた人が生きている間に実現できる見通しのものを計画するものです。どんなに長い計画でも百年を越える計画を立てるということは普通はありえないことです。
しかし、聖書の神が立てた計画は実に千年を軽く越える救いの計画です。人間にとってはそんな計画はあってないようなものと思われ勝ちです。しかし、その長い長い時代にわたる計画が神によって成し遂げられることを期待するのがキリスト教なのです。
ルカ福音書もまた救いの出来事が行き当たりばったりの出来事ではなく、人間がほとんど忘れかけていた神の救いの計画の実現であることを力強く描いています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章5節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」
きょうのルカ福音書が描くストーリーは、一見、老夫婦に関する個人的なお話のように感じられます。
おそらく、こういうストーリーは長いイスラエルの歴史の中には何度となく繰り返された話であったかもしれません。子供が与えられず祈り続けた夫婦、長年祈りがかなえられず年老いていく夫婦、そして、諦めかけた時にやっと祈りが聞かれて子どもを授かった夫婦。
しかし、きょう取り上げる箇所はそうした個人の出来事を描くただの個人的なストーリーというに留まりません。なるほど、祈りがかなえられたザカリアとエリサベト夫妻にとっては、主が自分たちになしてくださった大きな恵みとしていつまでも語り草にしたいと思う出来事に違いありません。
けれども、ルカがこの出来事を報告するのは、人類の救いの計画に関わる事件としてなのです。決して「むかしむかし、あるところに子どものいないお爺さんとお婆さんが住んでいました」という話ではないのです。
何よりもルカ福音書は、いつのことだか分からない昔々の話としてではなく、「ユダヤの王ヘロデの時代」に起った出来事として、歴史の中で神の救いの業を描こうとしています。ここに出てくるユダヤの王ヘロデというのは、晩年のヘロデ大王です。権力維持のためには家族さえも殺してしまうほど残忍な人でした。そういう王がユダヤの支配をローマ帝国から任されていた時代の出来事なのです。そういう時代だからこそ救いを必要としていたということもできるでしょう。あるいは、そういう時代にも関わらず、妨げられることなく神の救いは実現に向かって力強く進んでいったとも言えるのです。
ところで、天使がザカリアに告げたのはザカリア夫妻にとっての喜びばかりではありません。「多くの人もその誕生を喜ぶ」ような子供の誕生です。なぜなら、その生まれてくる子どもは「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」という役目を負っているからです。
天使は続けて与えられる子供についてこう述べます。
「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
旧約聖書を知っている人にとっては、この天使の言葉には聞き覚えがあったはずです。旧約聖書のマラキ書の最後にはこんな預言の言葉があります。
「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」
まさに、生まれようとしているヨハネはエリヤの再来として主の民を整えるためにやってくるのです。主のために残された民を整え、主を迎える備えをさせるためです。「大いなる恐るべき主の日が来る前に」といわれているように、到来しつつある終末の時が視野にあるのです。これから先延々と続く救いの業の取っ掛かりをつけるためではなく、差し迫った時間の中で神の民を整えるという勤めを果たすためにヨハネはやってくるのです。
またエリヤの再来として遣わされてくるヨハネは、預言の成就として、神の救いの業の一環として神のもとから遣わされてくるのです。
神は約束したとおり、ふさわしい時が到来したときにその約束を実現してくださいます。それは人間の業ではありません。主導権は神の側にあるのです。ヨハネを授かったザカリアもエリサベトも人間的には清く正しい人でした。しかし、そのことが救いの時をもたらすきっかけになったのではありません。神がふさわしい時にこの夫婦を選んで救いの業の実現に恵み深くも与らせてくださったのです。