2008年7月10日(木)祈って備え、機会を用いよう(コロサイ4:2-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
個人伝道をするとか、クリスチャンとしての証しの生活を送る、ということを聞くと、ついつい変に気負ったり、逆に尻込みしたりと、なかなか自分らしくできないという体験を持っていらっしゃる方が多いのではないかと思います。しかし、好むと好まざるとに関わらず、クリスチャンとして生かされている以上、クリスチャンとしての振る舞いを回りの人たちが様々関心をもって見ているという事実から逃れることはできません。
クリスチャンとして生かされているわたしたちに聖書の神がどんな生活を望んでいるとパウロはコロサイの教会の信徒たちに教えたのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 4章2節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢につながれています。わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
きょう取り上げた聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙の最後の勧めの言葉です。今まで学んできた事柄は、特にコロサイの教会を襲っていた間違った教えに対して、キリストに結ばれたクリスチャンたちがどう生きるのか、という問題が扱われていました。
繰り返しになりますが、その間違った教えをパウロはこう描きました。
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(2:8)
その間違った教えはキリストに従うものではないのですから、キリスト・イエスを受け入れてキリストに従うコロサイの信徒は「キリストに結ばれて歩みなさい」(2:6)と力強く命じられるのです。
そして、キリストに結ばれて歩むとは具体的にどういうことなのかということが、2章6節以下、今までずっと取り上げられてきました。
きょう取り上げた先ほどの箇所も今までの一連の勧めの言葉と緩やかに繋がっています。「緩やかに繋がっている」といったのは、特にきょう取り上げた箇所が、今までの一連の勧めを結論付けていると言うわけではないからです。また特に間違った教えの人々を意識して何かが命じられていると言うわけでもなさそうだからです。
そういう意味では、この部分は手紙全体を終えるに当って、なお言い足りない一般的な勧めの言葉を書き記した箇所と考えてよいだろうと思います。
また、きょう先ほど取り上げた箇所は論理的にひと繋がりの勧めの言葉と言うよりは、雑多な一連の勧めと理解した方がよさそうです。ただ、雑多と言っても、バラバラの勧めを思いつくままに並べたと言うほど、バラバラでもありません。
コロサイの教会の信徒たちの祈りに対する勧めの言葉から始まって、パウロたちのための執り成しの祈りへと話題が進み、そのパウロたちが大胆に福音を弁証することができるようにという執り成しの祈りが、今度はコロサイの信徒一人一人が賢い振る舞いの中で福音を証しし、弁証することへと心が向かうようにとパウロは願っているのです。
さて、最初に勧められていることは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」ということです。
パウロはこの手紙の冒頭でコロサイの教会の信徒のために何度となく祈っています。この手紙を結ぶにあたって、今度はコロサイの信徒たちみんながひたすら祈るようにとパウロは勧めています。特に何のために祈るのか、その祈りの内容については触れられていません。しかし、「ひたすら」祈ること、「目を覚まして」祈ること、「感謝を込めて」祈ることが命じられています。
祈りにおいてひたすらであると言うことは、熱心に絶えず祈ることです。言い換えれば、わたしたちが生きている現実の世界は祈りを挫く要素で満ちているということです。どうせ祈っても無駄だと思わされることが多いからです。だからこそ、祈りにおいてひたすらであることが求められているのです。
「目を覚まして」とは、信仰的霊的な意味で居眠りをしないという意味にも取れます。しかし、またイエス・キリストが「目を覚ましていなさい」と言う時には、世の終わりの終末を迎えるにあたっての注意深い態度を意味しています(マルコ13:32以下)。ここでの意味もそうだとすれば、祈りの態度はただ目先に起る事柄への対処ではなく、もっと遠くを見据えたものであれ、ということになるでしょう。「御国が来ますように」(マタイ6:10)、「マラナ・タ、主よ来てください」(1コリント16:22)と祈りつつ、救いの完成を待ち望む態度です。
「感謝を込めて」とは、キリスト教的な祈りには不可欠な要素です。そもそも祈りとはわたしたちの願いを神にかなえさせることではなく、神の御心を願い求めることです。わたしたちさえも思い及ばなかったことが、祈りを通して実現し、神の御心を教えていただくのです、そこに不平と不満とつぶやきがあるとすれば、それこそ御心に反する生き方です。ですから、感謝を込めて祈ることが進められているのです。
パウロは祈りについての勧めの中で、自分たちについても祈って欲しいと率直に願っています。特にそれは御言葉のために門戸が開かれること、そして、パウロがキリストの秘められた計画を語れるようにとの願いです。「キリストの秘められた計画」とは、時が満ちて異邦人にもキリストにあって神の救いが及んでいるという奥義です。
言い換えれば福音の宣教のために働く人々を覚えて祈るということでしょう。これは特にパウロのように牢につながれて宣教の困難に直面している人々のためにというばかりではありません。そもそも、福音の宣教は祈ることがなくても順調に進むものではないからです。祈ることを必要としているのです。
最後にパウロは、コロサイの教会の信徒一人一人が外部の人たちに対してどのように振る舞うべきか、勧めています。
「賢く振る舞う」とは「知恵をもって歩む」ということです。「知恵」とは既に2章3節で言われているように「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」。その知恵をもって歩むこと、生きることが勧められているのです。そうでなければあらゆる機会を正しく用いることはできません。
またパウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と勧めます。
「快い言葉で語る」とは「あなたがたの言葉をいつも恵みを伴うものにする」という意味です。クリスチャンは神の恵みをいただいた者なのですから、その恵みを語ることです。それこそが外部の人、一人一人への答えなのです。