2008年6月19日(木)愛されているのですから(コロサイ3:12-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストは最後の晩餐の席上で弟子たちに「新しい掟を与える」とおっしゃって「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちにお命じになりました(ヨハネ13:34)。この新しい掟はイエス・キリストが弟子たちを愛されたということが基礎にあって初めて成り立つものです。
考えてもみれば、キリスト教のすべては、イエス・キリストを通して示された神の愛を抜きにして成り立つものではありません。言い換えるならば、キリストを通して示された神の愛を受け止めることがなければ、クリスチャンとしての生活が成り立たないのです。
きょう取り上げようとしている箇所には、クリスチャンとして身につけるべきものが掲げられていますが、その前提には。クリスチャン一人一人がキリストにあって神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているという現実があるのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 3章12節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
先週学んだ個所には「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るべきことが勧められていました(3:9-10)。古い人を脱ぎ捨てると言うことは、裸でいると言うことではありません。当然、古い人に代わって身に着けるべきものがあります。先週学んだ個所には日々新たにされつつある「新しい人」を着るようにと言うことが命じられていました。
きょう取り上げる箇所には、その新しい人が備えているべき徳目について、さらに具体的な事柄が述べられています。
パウロはその徳目を挙げるに先立って、その前提として「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」と述べています。「神に選ばれるために、聖なる者とされるために、愛されために」ではありません。神の選びと清めと愛は、わたしたちの救いに先立っているのです。神に選ばれている者として、神によって聖なる者とされた者として、また神に愛されている者として、身に着けるべきものが述べられているのです。
さて、パウロは身に着けるべきものとして、まずは五つの事柄を挙げています。つまり「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の五つです。この五つの中で「謙遜」については、間違った教えを持ち込もうとしていた人たちの「偽りの謙遜」(2:18,23)について、パウロは既に語っています。前にも話しましたが「偽りの謙遜」と2章で訳されている言葉とここで使われている「謙遜」と言う言葉はまったく同じ言葉です。翻訳聖書は前後の文脈から片方を「偽りの謙遜」と訳して、まことの「謙遜」から区別しています。もちろん、パウロがここで語っている「謙遜」は、間違った教えの人たちが誇りに思う「偽りの謙遜」とは単語は同じでも違ったものなのです。
いずれにしても、パウロが挙げている「身に着けるべき五つの徳目」は続く3章13節の言葉によってその内容がいっそう具体的に示されています。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」
パウロが説いている身につけるべき五つの徳目、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」は、特に兄弟を忍耐して受け容れ、赦すという点で力を発揮するのです。もし心から兄弟を赦さず、忍耐することができないとするなら、その人は「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を身に着けているとはいえないのです。
しかし、パウロはこのことをコロサイの信徒たちに命じるときに、何の模範も何のイメージもなく抽象的な勧めの言葉としてそのことを命じているのではありません。パウロは「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と記して、キリストが先行する模範を既に示してくださっていることを思い出させているのです。
番組の冒頭でも触れましたが、イエス・キリストご自身、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに命じました。それと同じようにパウロはここで「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と主の模範を示してわたしたちに勧めているのです。
ところで、パウロは主の模範によって具体的に示された五つの徳目に加えて「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」と勧めています。なぜなら「愛は、すべてを完成させるきずな」だからです。丁度、扇の要のように愛が五つの徳目をバラバラではなく、しっかりと一つに纏め上げて調和の取れた完全なものとするのです。
パウロはコリントの信徒への手紙一の13章で「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」「愛がなければ、無に等しい」「愛がなければ、わたしに何の益もない」と繰り返していますが、まさにここでも、愛によってこれらの五つの徳目がしっかりと結び合わされないならば、それらは完全ではないのです。
さらに、パウロは身に着けるべきものとして平和と感謝を挙げています。ただし、ここでは「平和を身に着けなさい」とは言わずに「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と記しています。
「キリストの平和が心を支配する」というのは、パウロによればわたしたちが召し出された目的でもあるのです。パウロは言います。
「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」
パウロはさきほど「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい」と勧めましたが、このこともキリストの平和が心を支配するための具体的な行動なのです。そして、そのような行動がなければキリストを頭とした一つの体であることはできないのです。
もう一度繰り返しますが、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」、このことに励むようにと勧められているのです。