2008年6月12日(木)新しい人(コロサイ3:5-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日本で「成果主義」という言葉が使われ始めてから10年以上が経つでしょうか。成果主義の功罪について色々な人の意見を耳にすることが多くなってきたように思います。一見、成果主義と宗教とは何の関係もなさそうですが、成果主義の時代に生きる人々の考えは少なからず宗教心にも影響を与えているように思います。
というのは、成果主義と言うのは、何年かかってもいいから成果が上がればよい、というものではありません。ある短い期間の中で最大限に成果を挙げなければ意味がありません。同じような要求が知らず知らずのうちに宗教的な生活にも入り込んできています。そこで、短い期間で結果が見えないような気の長い宗教はあまり歓迎されない傾向にあります。生涯かかって自分の内面を成長させたり、あらゆる人間と向き合って、共に生きる道を気長に模索するようなことは敬遠されがちです。
それから、成果主義は結果を出す側から言うと、最小限の努力で最大限の結果を出せればこれに越したことはありません。できる限り楽をしたいというのは、人間に共通した思いです。これまた知らず知らずのうちに、宗教にもそのようなことを期待しがちになってきます。適度に手軽な修行で驚異的な自己変革を行うことができると言う新興宗教には人々も飛びつきがちなのです。
実はコロサイの教会を襲っている間違った教えの人々も、一見禁欲的な困難な道を求めているようで、本質はキリスト教よりも簡単で飛躍的な救いの道を求めているように思えてなりません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 3章5節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
先週取り挙げた箇所には、「上にあるものを求めるように」というパウロの勧めの言葉が記されていました。なぜなら、キリストと結ばれたクリスチャンは、キリストと共に十字架で死に、キリストと共に新しい命に甦らされ、キリストと共に神のいます天上にその命が隠されているからです。
それに対して、間違った教えの人々は天上の世界のことを語っているようでありながら、その本質はこの世を支配する諸霊のもとにあるのです。この間違った教えの人たちが説く詳しい教えの内容は明らかではありませんが、目指しているところは、反倫理的、反道徳的なものでは決してなかったことでしょう。「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去り」「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨て」るということに反対するような教えではなかったはずです。少なくともコロサイの教会の人々がクリスチャンになる前にどっぷりと浸かっていた異教の世界よりはずっとましだったかもしれません。
問題は救いの実現のためにキリストとどれだけ結びついているかということなのです。キリストを離れて救いの完成はありえません。キリストを通らない救いのバイパスはパウロには考えられないことなのです。
古い人を脱ぎ捨てるために必要なことは「独り善がりの礼拝」や「偽りの謙遜」や「体の苦行」などではありません。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされ」ることなのです。
実はパウロはここで大変面白い言い方をしています。
先ず第一にそこで身につけるようにと言われている「新しい人」とは「日々新しくされつつある新しい人」なのです。
古い人をその行いと共に脱ぎ捨てると言うことは、裸でいることでは決してありません。古い人を脱ぎ捨てるということには、何かそれに代わって身に纏うことが前提にあるのです。そして、その場合に身につけるものは、出来合いの「新しくされた人」なのではなく、「日々新しくされつつある新しい人」なのです。そこには完成に向かって成長し続けるクリスチャンの姿が描かれています。言い換えれば、日々新しくなることを求めつづけるクリスチャンの姿勢が期待されているわけです。
第二にその「新しい人」とは「造り主の姿に倣う」「真の知識に向かう」新しい人なのです。
パウロは1章15節で御子キリストについて「御子は、見えない神の姿である」ということを述べました。ですから、パウロにとって神の姿に倣う新しい人とは、キリストこそがその究極の姿であり、このキリストと結びついてこそわたしたちクリスチャンも身に纏うことができるものなのです。
同じようにパウロは2章3節で「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」と記しています。
真の知識に向かう新しい人とは、知恵と知識の宝を内に持っているキリストと結びついてこそ実現しうることなのです。
このキリストをおいてほかに新しい人を身につけるべき方法はありえないのです。いえ、救いにキリスト以外のバイパスを求めるところに間違った教えの落とし穴があるのです。
真の神の姿であるキリストと結びつき、真の知識をもったキリストを着るときに、そこには人種も身分も人を隔てる一切のものが取り払われるのです。ユダヤ人だから救われるのではありません。ギリシア人だから救いから漏れるのでもありません。自由人だから救いに入るのではありません。奴隷だから救いから漏れるのでもありません。
キリストと結びついていると言う理由で救いに与り、キリストから離れているという理由で救いからも離れているのです。
キリストにあって、古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達しましょう