2008年6月5日(木)上にあるものを求める(コロサイ3:1-4)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教信仰にとって大切なことは、目に見えない事柄を信じると言うことです。ヘブライ人のへの手紙11章1節にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という言葉はこれ以上ないくらい、信仰とは何かを的確に言い表しています。
キリストが十字架にお掛になり、死んで葬られたといういうのは、よほどの疑い深い人でない限り、歴史的な事実としてそれを受け入れることはそんなに難しいことではありません。
しかし、「キリストの十字架がわたしたちの罪の贖いのためであった」とか「キリストの十字架とともにわたしたちも死んだ」とか、あるいは、「キリストと共にわたしたちも甦って新しい命に生きている」というような事柄は、わたしがそのことを信じるか信じないかということに大きく依存しています。もちろん、それは「いわしの頭も信心。信じようによってはどうにでもなる」ということではありません。そうではなく、キリストの十字架と復活がわたしたちの救いにとって十分であるかどうかと言うことを疑い始めてしまうと、もはやその疑いを押しとどめるものは何もなくなってしまう危険があると言うことを言いたいのです。
コロサイの教会を襲っている間違った教えは、そもそも「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」を怠ってしまったところから始まっているのです。キリストの十字架と復活だけでは物足りないと思うところに、間違った教えの入り込む危険な隙間を与えてしまうのです。ですから、パウロはきょうの箇所でもキリスト教の基本を繰り返し確認して、クリスチャンとしての正しい歩みをなすようにと勧告しているのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 3章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
今、お読みした箇所は「さて」という言葉で始まっていました。ここから章も新しくなりますから、話題を転換して別の新しいことを話し出しているような印象を受けるかも知れません。
以前にもお話したかもしれませんが、聖書の章と節の区切りは印刷聖書ができてから、あとで便宜的につけたものに過ぎません。必ずしもこの手紙を書いた著者の考えと一致しているとは限りません。話の展開を理解する上で、自分で章と節の区切りを考えながら読むことが大切です。
それから「さて」と訳されているギリシア語の言葉は、時と場合によっては、いちいち日本語に訳すほどの強い意味をもった言葉ではありません。しかし本来の使われ方の一つは、前に言ったことを受けて、結論を引き出す時に使う言葉です。あえて翻訳すれば、「そういうわけで」とか「それゆえに」とでも訳すことができる言葉です。
いずれにしても、きょう取り上げた箇所は、今まで話題にしてきたコロサイの教会に入り込もうとしている間違った教えとは決して無関係な話題ではありません。記されていることの内容からしても、2章6節以下に記される事柄と密接な関係があります。
今まで学んできたことの繰り返しになりますが、パウロはコロサイの教会に入り込もうとしている間違った教えを念頭に2章6節で「あなたがたは、…キリストに結ばれて歩みなさい」と勧告します。それは、間違った教えの主張が人間の言い伝えにすぎない哲学であり、キリストを離れた、世を支配する霊に従うものだからです(2:8)。
クリスチャンとキリストとの結びつきと言う点では2章12節で「(あなたがたは)洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」とパウロは記してきました。
同じように2章20節では、キリストの教えが世を支配する諸霊とは何の関係もないことを強調して、こう記しました。
「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか」
そうしたことを受けて、きょうの箇所では「そういうわけで、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」と勧めているのです。
この3章1節の勧めの言葉は、今まで述べてきたことの結論であると同時に、より積極的にクリスチャンとしての歩みのあり方を描いている箇所でもあります。
クリスチャンはこの世に対してはキリストと主に死んだものなのです。また、新しい命に対しては、キリストと共に生かされたものなのす。そうであればこそ、キリストのいらっしゃる天上のことに関心を抱き、地上ではなく天上にあるものに心を留めることが大切なのです。
もちろん、ここでパウロが言っている「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」という勧めは、この世のことに対して無関心でいることを促している言葉ではありません。この世が抱えている問題はクリスチャンにとってどうでもよい問題であるはずがありません。むしろ、たくさんの問題を抱えているこの世であるからこそ、そこに住む人々の救いについて無関心でいられるはずはないのです。
しかし、パウロがここでこの世との関係を絶って、天上にあることがらを求めるようにという意味は、それとはまったく違う観点からのことです。
パウロにとって一番の懸念は、せっかく信仰を持った人々が間違った教えに翻弄されて、キリストの十字架だけでは救いに不十分と考え、復活のキリストの命にあずかっていることを過少にしか評価しなくなってしまうことです。その結果、人間的な知恵で救いの不足を補おうと、何の価値もない自己満足の業に走ってしまうこと、そのことこそ間違った教えの本質であるとパウロは見抜いているのです。
パウロの願いは信じる者一人一人がキリストの十字架の恵みを確信し、復活の命に与って、天上にある完全な救いの恵みをますます確信することなのです。