2008年5月29日(木)キリストから離れてしまう空しさ(コロサイ2:16-23)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教信仰に立って福音の希望に生きるということは、クリスチャンとしての理想の生き方です。そして、誰しもそこから意図的に離れようとして異端的な教えの虜になるということはあまりないことです。
むしろ、より信仰的に熱心であろうとして、かえって福音の本質を見失ってしまい、結果的に福音の教えとは似ても似つかないものになってしまうのです。あるいは、逆に信仰的な熱心さを失い、この世の考えに知らず知らずのうちに染まってしまい、気がついたときにはおおよそキリスト教信仰とはかけ離れたものになってしまうのです。どちらにしても。本人たちにしてみれば、正しい信仰からそれてしまっている自覚がない点で共通しています。
この「明らかに間違っているという自覚のなさ」こそ、教会にとって一番の敵なのです。
きょうこれから取り上げようとしている箇所で、パウロはコロサイの教会を襲おうとしている間違った教えの問題点を、あからさまに指摘しています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 2章16節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。
あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

きょう取り上げた箇所にはコロサイの教会を襲っていた間違った教えの人々がどんな主張をもった人々であったのかということが、比較的詳しく述べられています。
たとえば「食べ物や飲み物のこと」と言う表現や「手をつけるな。味わうな。触れるな」という異端者たちの主張と思われる命令の言葉、またそうしたことをパウロが「体の苦行」などと表現していることから考えると、彼らが禁欲的な信仰生活に重きをおいていた様子がわかります。
あるいは「祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません」というパウロの主張から考えると、間違った教えの主張にはユダヤ教の背景があったのかもしれません。なぜなら「祭りや新月や安息日」はユダヤ人たちがモーセの律法に従って守ってきた事柄だからです。
しかし、コロサイの教会が直面している問題は、単純にユダヤ教への逆戻りという問題ではなさそうです。ガラテヤの教会で問題となったような、異邦人クリスチャンもユダヤ人のように「割礼」を受けるべきであるというような主張はどうも全面には出てきていないようです。確かに、このコロサイの書簡にも「割礼」というキーワードが皆無ではありません。しかし、その点が特に際立って問題となっているようでもありません。ですから、単純にユダヤ教への逆戻りが問題となっていたとは思えません。
それどころか「天使礼拝」とか「幻で見たことを頼りとする」とか、何か怪しげな要素が見え隠れしています。
「天使礼拝」と言う言葉が「天使を礼拝する」という意味であるとすれば、唯一の神だけを礼拝するユダヤ教の背景では考えられない教えを信奉する集団と言うことになるでしょう。
もっとも、「天使礼拝」とは「天使を礼拝する」という意味ではなく「天使たちが神を礼拝すること」と言う意味であるとすれば、ユダヤ教の黙示文学に影響された教えであるかもしれません。もしかしたら、間違った教えを説く人々は、天上での天使たちの礼拝に自分たちもあずかる特別な集団と考えていたのか、また、そうしたことを幻で見たことをことさらに強調していたのかもしれません。

しかし、その礼拝がどんなものであれ、パウロはそれを「独り善がりの礼拝」(2:23)と呼んでいます。自分で発案し、真の神に起源をもたない自分で自分に課した礼拝に過ぎないのです。
さらにパウロは彼らの生活を二度にわたって「偽りの謙遜」(2:18,23)と呼んでいます。実はここで「偽りの謙遜」と訳されている言葉は「謙遜」という一単語です。「偽りの」という言葉はついていません。おそらく「謙遜」という言葉は彼らの教えのキーワードであったのかも知れません。しかし、翻訳に付け加えられているように、それは「偽りの謙遜」でしかなかったのです。
天使たちの礼拝に与り、幻を見たことを頼りとし、いたずらに禁欲生活を送っている彼らは、自分たちのことをどんなに「謙遜である」と呼んでいたとしても、パウロにとっては「偽りの謙遜」でしかなかったのです。

コロサイの教会を襲っていた間違った教えに関しては、パウロが記していること以上に詳しい情報はありません。彼らが具体的にどんなことを教えていたのか、また、どんな生活を送っていたのか、さらに、その影響がどの範囲にまで広がっていたのか、詳しいことは何一つ分かっていません。
ただ、はっきりと言えることは、パウロは彼らの教えがキリストに根ざしてはいないと見ていたことです。キリストを離れたところには、どんなに素晴らしく、またもっともらしく見える教えも、「実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」(2:23)

パウロははっきりと、彼らは「頭であるキリストにしっかりと付いていない」と断言します。

クリスチャンとしてほんとうの謙遜をもって生きるとは、この頭であるキリストの働きにより、体全体が、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくことなのです。それを超えて何か特別な成長の秘訣を求めるところに危険が潜んでいるのです。