2008年5月22日(木)キリストと結ばれている恵み(コロサイ2:11-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書独特の表現に「キリストにおいて」とか「キリストと結ばれて」という表現があります。もともとのギリシア語の表現では「エン・クリストー」と言いますが、英語ではin Christと言います。そのまま翻訳すれば「キリストにおいて」とか「キリストにあって」という意味です。新共同訳の聖書では場所によっては「キリストと結ばれて」と意訳されています。
なぜこの表現が重要なのかというと、救いのプロセス全体を通してキリストとわたしたちの救いの関係性をとてもよく語っているからです。救いのどの局面を考えるにしても、キリストを離れては救いについて語ることはできません。キリストを離れた罪の赦しというものはありえませんし、キリストを抜きにして義とされることもないのです。わたしたちが神の子とされるのもキリストと結ばれてのことです。
きょう取りあえげようとしている箇所も、このキリストにあっての、キリストと結びついての救いの恵みを語っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 2章11節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」
きょうの箇所は前回学んだ個所に直接繋がっている箇所です。本来ならば2章6節から15節までは一度に取り上げるべき箇所かもしれません。しかし、記されている内容の重さから、あえて二つに分けて取り上げることにしました。きょう取り上げるのは後半の部分、11節からの部分です。
さて、先週取り上げた箇所では、キリストに結ばれて歩むことの大切さがパウロによって教えられていました。そのことをパウロが強調するのは、キリストの救いを危うくしてしまうような間違った教えがコロサイの教会に入り込もうとしていたからです。
パウロはその教えを「人間の言い伝えにすぎない哲学」「むなしいだまし事」と呼びました。パウロがそこまで手厳しく間違った教えを批判するのは、その教えが「キリストに従うものではない」からです。
パウロは「キリストの内にこそ、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされている」と述べていますが、裏を返せば、パウロの目から見てこの間違った教えは、キリストの満ち溢れる神性を不十分にしか認めない人たちだったのでしょう。そして、その結果、キリストによるクリスチャンの救いを不十分なものと考えていたものと思われます。
そこで、きょう取り上げた2章11節以下でパウロは、わたしたちがキリストにあって満たされているということが、どういうことを意味しているのか、このキリストとの結びつきについてさらに詳しく筆を進めているのです。
まずパウロはキリストとの結びつきで、わたしたちクリスチャンこそが「手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け」ている、と述べています。
この「手によらない割礼」という表現は、明らかにユダヤ人たちが施していた実際の割礼を意識した表現です。この「手によらない割礼」をさらに言い換えて「つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼」であると言います。
この場合、「肉の体を脱ぎ捨てる」とは、わたしたちが罪の世界に染まった古き人をキリストにあって脱ぎ捨てるという意味で、それを「キリストの割礼」と呼んでいるのでしょう。
では、いつ肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼をわたしたちが既に受けたというのでしょうか。パウロは続く12節でこう述べます。
「洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」
つまり、わたしたちが信仰をもって洗礼を受けたとき、神の側ですでにキリストの十字架と復活とをわたしたち自身のものとしてくださったというのです。キリストの死がわたしたちのものとなり、キリストの復活がわたしたちの復活となったのです。つまり罪の世界に対しては死んだものとなり、神に対しては生きるものとなったのです。
キリストと結びついて、わたしたちは罪赦されて、罪から解放され、キリストと結びついて神の御前で生きる永遠の命を手にしているのです。
コロサイの教会に忍び込もうとしている間違った教えを唱える人たちは、このキリストのうちにある救いの完全さを結果的に認めようとしない人たちなのです。
パウロはさらに進んで、キリストのうちにある罪の赦しの完全さについてこう述べています。
「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」
神がキリストにあってわたしたちに無罪を宣言してくださるのは、キリストがわたしたちに代わって罪の償いを十字架の上で成し遂げてくださったからです。神が宣言してくださったその事実だけで十分なのですが、さらにパウロは念を押して、わたしたちにとって不利な証拠となる証書そのものがキリストによって破棄されたと述べます。
神がキリストにあってわたしたちに罪の赦しを宣言し、証拠となる証書そのものをキリストの十字架によって破棄してしまったのですから、その罪の赦しは完璧なのです。