2008年4月24日(木)今や救いはあなたがたのもの(コロサイ1:21-23)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
過去を振り返るというのは、それすべき時とそうでない時があるように思います。もし、単に過去を悔やんで後悔するために過去を振り返っているのだとすれば、それは少しも益することではありません。まして、過去を変えることはできませんから、過去に戻って人生をやり直そうとすることほど愚かなことはありません。
しかし、過去を反省し、将来に反省を生かすために振り返るのであれば、それは正しい過去の振り返り方です。さらに、過去を振り返って、今与えられている恵みを数え上げることができるとすれば、それは今の生き方に喜びと希望とを与えることになります。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所で、パウロはコロサイの教会の人々の過去を振り返りながら、今与えられている恵みに目を注いでいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 1章21節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
きょう取り上げた箇所は、先々週と先週、二回にわたって取り上げたパウロの祈りの言葉に続く箇所です。1章9節から始まった祈りの言葉の中で、パウロの心は父なる神から御子イエス・キリストへと流れるように自然と関心が移っていきました。祈りの言葉の後半部分は御子イエス・キリストとはどういうお方であるのかという信仰の表明にほとんどが費やされています。それは祈りの内容と密接にかかわる信仰の表明であると同時に、きょう取り上げた箇所とも深く結びついています。
前回取り上げた1章15節以下で、パウロは御子と万物との関係を述べた後で、神が万物をただ御子によって御自分と和解させられたという救いの事実を述べました。その万物との和解の中心は、言うまでもなく神と人間との和解です。そして、その和解には他でもないコロサイの教会の信徒たちも与っているのです。
そこで、パウロは新しく文章を書き起こして、コロサイの教会の信徒たちの過去と現在とを対比させながらこう記しています。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解してくださいました。」
ここでパウロはコロサイ教会の人々がイエス・キリストの救いに与る前の状態を二つの点から描いています。一つは神から離れている状態、もう一つは神と敵対している状態です。
ただ単にまことの神を知らないで神から離れて生きているというのでは、たまたま神を知るチャンスがなくて神から離れていた、と自分の責任をいい逃れることができるかもしれません。神を知るチャンスがなかったのは必ずしも本人の責任とは限らないからです。
しかし、パウロは神から離れた人間の状態に加えて、そこから生み出される人間の思いや言葉や行動が、神の御旨にことごとく敵対するものであることを指摘しています。まことの神を知らないけれども、その一点を除けばまことに正しい人間であるという人をパウロは知らないのです。パウロにとっては、神から離れた人間のなすことのうち、それが神を喜ばせ、神の正義の基準を満足させるものは一つとしてないのです。
エフェソの信徒への手紙2章1節にはもっと端的にこう記されています。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」
「活動」とは文字どおりに理解すれば「活き活きとした動き」です。人間にとってはそのように見える人間の活動も、神の目から見れば、それは罪によって汚され、死んだも同然の有様なのです。それは神を喜ばせるに値しないものばかりなのです。
もちろん、パウロが以前のコロサイの人たちの状態をこのように引き合いに出したのは、いつまでもコロサイの人々の過去を責め立てるためではありません。そうではなく、今いただいている恵みの大きさを描くためです。
かつては神から離れ、神と敵対して歩んでいた者が、今や神と和解し、神によって生かされているのです。その救いの恵みがどれほど大きなものであるのかを覚え、ますます救いの恵みのうちを歩みつづけるために、パウロは過去と現在とを比べているのです。
ところで神がこのような救いをお与えになった目的をパウロはこう記しています。
「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」
もちろんこの場合、神が御子の死を通して和解しを成し遂げて下さった結果、コロサイの教会の人々が聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者となった、と理解することもできます。しかし、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者にわたしたちがなるようにと、そういう目的をもって神はわたしたちと和解してくださったとも理解できます。なぜなら、パウロが「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」について言及するのはいつも終末の時の審判と関係しているからです。
たとえばフィリピの信徒への手紙1章10節には「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者」となるようにと祈られています。同じようにコリントの信徒への手紙一の1章8節でも「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」と記されています。どちらの場合もキリストの日を目指して清い者、とがめられることのない者とされることが目標とされているのです。
ですから、パウロは終末の完成を目指してあゆむ途上にあるクリスチャンに対して「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」と勧めるのです。パウロの願いはコロサイの信徒一人一人がしっかりと信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れず、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として神の御前に立つことなのです。