2008年4月17日(木)御子と創造、御子と救い(コロサイ1:15-20)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

今からおよそ二千年前にベツレヘムでお生まれになり、ゴルゴタの丘で犯罪人の一人として十字架刑に処せられ、その後死者の中から復活されたナザレのイエスとは、いったいどのようなお方であるのか、それこそがキリスト教会がこの二千年間、変わるところなく宣べ伝えてきた大切な事柄です。
きょう取り上げる箇所には、神の子イエスについて、このお方がどのようなお方であるのか、ただ救い主というばかりではなく、驚くほどのことがここには記されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 1章15節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」

きょう取り上げる箇所は、厳密に言うと文章の途中から続いている部分で、関係代名詞によって御子イエス・キリストについて説明している部分です。先週学んだパウロの祈りの言葉を構成している一連の箇所ではありますが、祈りの言葉から少し離れた内容になっています。また、今日取り上げたこの部分は、パウロ自身が書いたのではなく、初代教会の信仰告白の言葉か讃美歌の歌詞からパウロが引用したものではないかと考えられている箇所でもあります。

さて、前回の繋がりから先ずは見てみたいと思います。

前回取り上げた箇所でパウロはコロサイの教会の人たちが「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩む」ことができるようにと祈りました。そして、その具体的な事柄として「御父に感謝するように」生活を整えることを願いました。1章13節はその感謝の対象である父なる神についての説明が続いています。つまり、「御父に感謝するように」といわれている「御父」とは「わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して」くださったお方なのです。
きょうの箇所はさらに、わたしたちがその支配下に移されたところの御子、そのお方によって罪の赦しを得ているところの御子というお方についてさらに詳しく述べている箇所です。そこでは父なる神との関係、万物の創造との関係、教会との関係、そして贖いの御業との関係と、多岐にわたる関係の中で御子イエス・キリストがいかなるお方であるのか、ということが記されているのです。

まず父なる神との関係で言うと、御子は「見えない神の姿」であるといわれます。あるいは「見えない神のかたち」といってもよいと思います。
ヨハネによる福音書の中で、イエス・キリストは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と弟子のフィリポにお話になりました(ヨハネ14:9)。それに呼応するようにヨハネによる福音書の記者は「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)と記しています。
それと同じようにこのコロサイの信徒への手紙でも、御子は見えない神を示す神のかたちであるとしるされているのです。イエス・キリストを見るときに見えない神の姿をはっきりと知ることができるのです。言い換えれば、イエス・キリストを知らないならば神を知っているとはいえないのです。

ところで、「神のかたち」といえば、旧約聖書創世記の中で、人は神のかたちに造られたと教えられています。しかし、アダムの堕落によって、このいただいた神のかたちはある意味で不完全なものになっています。このコロサイの手紙の3章10節に「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」るようにと勧められていますが、御子キリストこそ神のかたちである新しい人、新しいアダムなのです。このお方によってだけ、失われた神のかたちを回復していただくことができるのです。そういう意味で、御子こそまことの神のかたちを持った新しい人なのです。

次にパウロは御子と創造の業との関係に言及しています。それによれば御子は造られたものではなく、すべての造られたものに先んじて存在するお方です。創造の御業が始まる前に父より永遠に生まれたお方としてパウロは御子を紹介しています。御子よりも前には歴史も時間もなく、被造物もなにも存在しないのです。
さらに、造られたものはすべて「御子において造られ、御子のために造られた」と言われています。造られたものに対して御子が持っている特別な関係がここでは述べられているのですが、特に「王座も主権も、支配も権威も」と名をあげて言われているのには特別な理由があります。
このコロサイの手紙2章9節でパウロは、コロサイの教会を危険にさらしている間違った教えに関連して「世を支配する霊」について述べています。それとの関連で2章10節には「キリストはすべての支配や権威の頭です」という表現が繰り返されます。
つまり、コロサイの教会を襲っていた間違った教えの主張者たちは「王座や主権、支配や権威」という特別な概念を持ち出して何らかの意味でその優位性を主張していたのでしょう。しかし、それすらも御子にあって造られ、御子のために造られたものに過ぎないのです。
万物が究極的に向かう先は御子キリストに他なりません。言い換えれば、キリストを抜きするならば、あらゆる被造物はそのその存在の意義を見失ってしまうのです。

このようにパウロは御子キリストが創造されたものに対して持つ特別な関係について述べた後、今度は御子と教会との関係について語ります。「御子はその体である教会の頭である」とパウロは言います。
教会とは神によって救いに召された神の民の集まりです。その集まり全体をひとつの体と捉え、その体を統率するものとして御子こそがその頭であると言われているのです。しかも、その御子とはここでは死者の中から復活された御子キリストです。
御子は創造の御業に先立って存在したお方として、万物の上に立っておられますが、ここでは、死者の中から最初に甦った第一人者として教会の頭として立っていらっしゃるのです。というのも、御子においてこそ満ち溢れるものが満たされており、御子の十字架においてこそ万物と神との和解が成立しているからです。
そのような大きな救いを御子を通していただいているのですから、この御子キリストにこそわたしたちの信仰の目はしっかりと注がれる必要があるのです。