2008年4月3日(木)父なる神への感謝(コロサイ1:1-8)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

今月から新しい聖書の箇所に入ります。これから数ヶ月にわたって取り上げようとしているのは、コロサイの信徒に宛てて記された手紙です。
このコロサイの町は現在のイスタンブールからほぼ南へ350キロメートルほど行ったところにあるフリギア地方を流れるリュコス川の上流に位置する町です。このリュコス川の川沿いにはこの手紙の中にも名前が出てくるラオディキアと、もう一つヒエラポリスの町がありました。コロサイの町はかつて羊毛繊維の町として栄えましたが、地震の多い地方で、新約聖書の時代にはそれほど重要性のある町ではありませんでした。しかし、ここにもイエス・キリストの福音が伝えられ、クリスチャンたちが福音に立った生活を営んでいたのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 1章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、また、”霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。

さて、きょうから取り上げるコロサイの信徒への手紙は厳密には一つの教会に宛てられた手紙というよりは、回覧された手紙のようです。この手紙の4章16節にこう記されています。

「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。」

丁度回覧版のように、この手紙は後にラオディキアの教会に回され、ラオディキアの教会から回ってくる手紙はこのコロサイの教会でも読まれたようです。今の時代ならラジオやテレビやインターネットでたくさんの人々に同時に配信することができるでしょうけれども、この時代には手紙が福音の教えを伝える重要な手段だったのです。それでも、パウロ自身が自分の足で教会から教会を巡るよりもずっと効率的に教えを伝えることができたはずです。ですから、この手紙はコロサイにいる信徒に宛てられた手紙ではありますが、その地方の諸教会全体の建徳のために記された手紙でもあるということができます。

この手紙の差出人は使徒パウロとテモテです。差出人に協力者テモテの名前を加えていますから、パウロの個人的な手紙ではなく、教会的な重みを持った公的な手紙ということができます。パウロとコロサイの教会の関係は先ほどお読みしたところに記されていたように、直接パウロがこのコロサイの地を伝道し、教会を建て上げたというわけではなさそうです。後に名前が記されているエパフラスが直接福音の真理をコロサイの人々に語リ聞かせ、コロサイの教会の様子をパウロはこのエパフラスを通して伺っていました。

この手紙がどこから出されたのかというヒントはたった一つ、この手紙が出されたのは獄中からであったということだけです。
パウロは度々自分が牢獄ににつながれていることを手紙の中でほのめかしています。特に手紙を結ぶに当って、自分で筆をとって「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください」と願っています。
ただ、残念ながらどこの獄中であったのかということは、この手紙の中だけでは判断することはできません。ただ、少なくともこの手紙の結びの部分に出てくる人名、特にオネシモの名前に言及があるところから、この手紙はフィレモンに宛てた手紙と同じ時期に書かれ、フィレモンに宛てた手紙と一緒に託されたのではないかと思われています。
オネシモはフィレモンのもとから逃げ出してきた奴隷ですから、遠くローマまで逃れてきたと考えるのか、もう少し近いところだったのか、という見解の相違で、この手紙の書かれた場所についての意見が分かれるようです。もっとも執筆場所がどこであるのかという正確な場所については手紙の内容を理解する上でそれほど重要ではありませんので、これくらいにしておきます。

さて、3節からは神への感謝の言葉が記されています。パウロはどの手紙でも手紙の書き出しの部分に神への感謝の言葉を綴っています。その感謝の言葉を通して、パウロとその教会との関係や、その教会がどんな風にして今日まで至ってきているのか、その様子を窺い知ることができます。
このコロサイの信徒への手紙に記された神への感謝の言葉を読む限り、この教会が健全に成長している様子が想像されます。

彼らはキリストに対する信仰、聖徒たちに対する愛をしっかりと持ちつづけていました。しかも希望に基づいてしっかりと持っていたのです。ここに信仰と愛と希望が相互に美しく関連付けられています。信仰だけでもない、愛だけでもない。また、信仰と愛とが宙に浮いているのでもない。…これらがキリスト教的な希望にしっかりと根ざして調和が保たれているのです。
さらにパウロはコロサイの教会の人たちが希望を学んだ福音が、コロサイの地でも豊かに実を結び成長している様子を喜びと感謝を持って描いています。
こうしたことのゆえに、パウロは神に感謝を述べているのです。パウロの目はコロサイの信徒たちの成長を観ていると同時に、それ以上にそのことを実現してくださった神に向かっているのです。
これから先、パウロはコロサイの教会が直面している問題について、この手紙の中で扱おうとしているのですが、決してパウロは悲観的ではありません。なぜなら、ここに至るまでコロサイの教会を支えてくださった神への感謝と信頼とがあるからです。
神に感謝を捧げる時にこそ、神への謙遜な思いと信頼とがわたしたちのうちに宿るのです。