2008年3月6日(木)霊の導きに従って(ガラテヤ5:16-26)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

洗礼を受ける時の誓いの中に「キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し約束しますか」という言葉が出てきます。確かにその決心がなければキリスト教に足を踏み入れることはできません。しかし、その決心と約束を一生涯変わることなく守りつづけることができたと自信をもって言うことが出来る人は決して多くはないはずです。
むしろ信仰生活を送る中で様々な誘惑にあい、自分の力の弱さを思い知らされ、ときとして誘惑に負けてしまう自分自信に失望し、これ以上自分がキリストの僕であることを公に言い表すことが憚られる、という体験をした人の方が多いように思います。
実は先ほど引用した誓いの言葉には一つ大切な前置きがあります。それは「聖霊の恵みに謙虚に信頼し」という言葉です。「あなたは聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストの僕としてふさわしく生きることを決心し約束しますか」…つまり、キリストの僕としてふさわしく生きるには、聖霊の恵みに謙虚になって信頼する姿勢が必要なのです。キリスト者の生涯の歩みは、この聖霊の恵みに謙虚により頼み、支えられてこそ成り立つものなのです。
きょう取り上げる聖書の箇所は正にそのことをわたしたちに教えている箇所です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 5章16節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

きょうの箇所も先週学んだキリスト者の自由の問題と深く関わっています。パウロは5章1節で「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と述べました。そして、そのことを受けて先週取り上げた箇所では「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」とパウロは勧めています。
きょうの箇所はそのことをさらに発展させて「霊の導きに従って歩みなさい」とパウロは勧めます。そして、この霊の導きに従って歩む生き方に対立するものとして、肉の欲望を満足させる生き方があげられるのです。パウロの念頭にはこの「肉の欲望を満足させる生き方」こそが奴隷の生き方で、そこから解放してくださり、自由を与えてくださったのがキリストなのです。

ところで、「霊と肉」という対立はしばしば「霊魂と肉体」の対立と取られがちです。その考えによれば、そもそも肉体は汚れたものであって純真な魂を閉じ込めている牢獄のようなものだと思われがちなのです。従って、束縛する汚れた肉体から純真な魂を解放することが救いであると誤解されるのです。
しかし、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で言っている霊と肉との対立はそういう意味での対立ではありません。まずここで言われている「霊」というのは、神の霊、あるいは聖霊のことを指しています。あるいはまたパウロはそれを「御子の霊」とも呼んでいます。既に学んだ四章六節七節でパウロはこう言っています。

「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」

パウロが「霊の導きに従って歩みなさい」というとき、それは「あなたがたの純粋な魂に従って歩みなさい」というのとは明らかに違うのです。そうではなく、聖霊の導くままに自分を明渡す生き方です。

この霊の導きに従う生き方が対立するものが、「肉の欲望を満足させる生き方」なのです。それは神の霊に従おうとしない正に神を忘れた、罪深い人間のままに生きる生き方です。
具体的にその罪深い人間の生き方がリストアップされています。

「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」

聖書は人間が生きる上で必要な欲求そのものを禁じたりはしていません。食欲も物欲も性欲もそれ自体として罪であるわけではありません。それは人間が生命を維持し、子孫を反映させる上で必要な神から与えられた自然の欲求です。問題なのはそれらの欲求を自己満足と利己心のために追及し、満たそうとするあらゆる営みなのです。その結果が姦淫であり、わいせつであり、好色であったり、また偶像礼拝や魔術の利用であったり、敵意、争い、そねみ、怒りを生み出すものであったりするのです。こうした営みをなしていく人間の有り方こそが、肉であると言われるのです。

パウロはこうした罪深い人間がキリストを信じキリストのものとされたとき、確かに罪の奴隷から解放された、自由な者としてキリスト者のことを描いてます。しかし、同時に、この自由を本当に自分のものとしつづけるために、聖霊に謙虚に信頼して歩むことを願っているのです。
パウロは肉の欲がもたらす結果と対比して、聖霊の結ぶ実について列挙しています。

「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」

クリスチャンの生き方とはこのような豊かな実りをもたらしてくださる聖霊に、心から謙虚になって信頼をよせる生き方なのです。自分の力に過信するときにこそ肉の欲望を満足させる生き方におちいってしまいがちなのです。そうではなく、いつも聖霊の導きを仰ぐ生き方こそがわたしたちが自由である秘訣なのです。