2008年2月21日(木)十字架のつまづきと救い(ガラテヤ5:7-12)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「キリスト教会のシンボルは?」と尋ねられて、「十字架」と答える人は決して少なくありません。実際、街中で教会を探すときは、屋根に取り付けられた十字架を目印にすることが多いと思います。電車の窓から景色を眺めていて、屋根に掲げられた十字架を見つけると、そこが教会であることはすぐに分かります。
今ではそれほどまでにキリスト教会のシンボルとなった十字架も、元を正せば、シンボルにするには決してふさわしいものではありませんでした。たとえば誰がギロチン台を自分たちの宗教のシンボルとする人がいるでしょうか。あるいは絞首刑台のロープをシンボルとして屋根の上に掲げる人がいったいいるでしょうか。同じように十字架は死刑と関係しているのですから、それを心地よいものとはだれも思いはしないのです。それは正にキリスト教会にとっての大きな課題でもあったのです。
十字架で処刑された人を世界の救世主として宣べ伝えることがどれほど大きなつまずきとなったことでしょう。
しかし、十字架のキリストを覆い隠してキリスト教の救いを伝えることはできません。いえ、十字架のキリストがいなければ、キリスト教の救いは違うものになってしまうのです。この手紙が宛てられたガラテヤの教会では、まさに十字架のキリストとは違うものによって救いを得ようとする間違った教えによって道を踏み外そうとしているのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 5章7節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

パウロは5章に入って、ガラテヤ教会の問題点を単刀直入に述べて来ました。それは彼らが救いの完成のために受けようとしていた割礼にかかわる問題でした。今取り上げた箇所はその続きにあたる箇所です。
既にパウロはこの手紙の中で今まで十分にこの問題について論じて来ました。しかも、どんな方向からみてもキリストの福音と割礼とは相容れないものであることを語り尽くしたと言ってもよいほどです。
その議論を受けてパウロは、こう述べます。

「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。」

ガラテヤの教会の人々は出だしから違う道を走っていたのではありません。そういう意味では戻りさえすれば正しい道に立ち返ることができる可能性があるのです。今さら一から救いについて教えられなければならないというのとは違います。既に歩んできた道に戻りさえすれば、あるいは既に歩んできた道に留まりさえすれば、正しい歩みを続けることができるのです。
彼らが踏み外して出て行った先の道は、もう一つの真理と呼べるものでは決してありませんでした。それは明らかに真理に従わない道なのです。決して数ある正しいオプションの一つをガラテヤの教会の信徒たちが選んだというのとは違います。この点についてはパウロはこの手紙の冒頭から次のように警告を発しています。

「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(1:7)

もう一つ別の福音、もう一つ別の真理というものはありえないのです。そうであればこそ、パウロの嘆きは大きいのです。

「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」とパウロははっきりと間違った教えの行き先が神に向かうものではないことを指摘します。

なるほど、割礼を受けるか受けないかは些細な議論だという人もいるかもしれません。確かにそう思う人たちもガラテヤ教会の中にはいたのでしょう。しかし、些細と思える議論も実は福音理解全体をゆがめてしまう大きな力を持つのです。

「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とパウロは事柄の重大性を指摘しています。

しかし、パウロは、一方ではガラテヤの教会の人々がまことの福音から離れていこうとしている姿にあきれ果ててはいますが、しかし、決して絶望していると言うわけではありません。

「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています」(5:10)

キリストにあってガラテヤの教会の人々を召し出してくださったお方は、その人々を最後まで守ってくださるとパウロはキリストにあって確信しているのです。逆に「あなたがたを召し出しておられる方からのもの」ではない教えを説いて、「あなたがたを惑わす者」には、神の裁きがくだることをパウロは警告しています。

最後にパウロは非常に逆説的な言い方をしますが、自分の福音理解の正しさに対する確信を次のように証しします。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」

パウロはかつては割礼の重要性を信じていたファリサイ派の人でした。もしパウロがクリスチャンになった後も十字架のキリストによる救いではなく、割礼の重要性を説きつづけていたとすれば、ユダヤ人からの迫害も敵対者からの非難も受けることもなかったでしょう。また、十字架で処刑された救い主を伝えるというつまずきに苦労する経験もしないですんだことでしょう。しかし、ユダヤ人による迫害を甘んじて受け、十字架のキリストを伝えるつまずきに敢えて苦労することをいとわないこの態度にこそ、パウロがどれほど福音を正しく理解して譲らないか、そのことが現われているのです。パウロにとって十字架のつまずきを除き去るという妥協は、福音理解の根幹にかかわる問題なのです。十字架の上でわたしたちの罪をすべて背負い、恥じと苦しみに耐えたキリストこそがわたしたちに救いをもたらすのです。そこに付け加えるものは何もないのです。