2008年2月14日(木)愛の実践を伴う信仰(ガラテヤ5:2-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「律法を行うことによる救いか、信仰による救いか」というテーマ自体があまり興味をひかない話かもしれません。キリスト教に関心のない人にとっては、そう言われてもまったく意味が分からない議論だろうと思います。しかし、クリスチャンにとっても今ではあまりにも自明な話であるために、ややもすると聞き流してしまうということもあるかもしれません。
きょうの箇所はこのガラテヤの手紙の中では最も端的にガラテヤ教会の問題点を指摘している箇所ですが、ただ単に律法による義を否定して終わっているわけではありません。
キリスト者の希望に触れ、キリスト者が何を大切にして生きているかということにも踏み込んで話を進めています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 5章2節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、”霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
きょう取り上げた箇所は、先週取り上げた5章1節の言葉を受けて具体的にガラテヤ教会の信徒が抱えている問題点を指摘している箇所です。
5章1節でパウロは言いました。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」
ガラテヤの教会が抱えていた問題はキリストが与えてくださった自由にかかわる問題でした。キリストがせっかく勝ち取ってくださった自由を無駄にして、再び奴隷となってはいけないのです。
そのように述べた後で、パウロはきょう取り上げた5章2節で具体的にどんな問題が妨げとなってキリストが与えてくださった自由が失われそうになっているのか、その問題をはっきりと指摘します。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」
割礼の問題こそ、彼らを惑わす大きな問題である、とパウロは断言しているのです。6節でも同じように「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」といパウロは繰り返します。パウロは別の手紙の中では、かつての自分を「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3:5-6)と紹介するほどの人物ですから、そのパウロが割礼の無意味さを断言しているのですから誰よりも説得力があることは言うまでもないことです。
このガラテヤの信徒へ宛てた手紙の中で割礼の問題が名指しで出てくるのはこの5章が初めてですが、すでに2章3節以下でこの問題についての伏線をパウロははっています。
「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした」
つまり、エルサレム教会のおもだった人たちでさえ、ギリシア人であったテトスに割礼を受けさせるような強制はしなかったのです。その点ではエルサレム教会のおもだった人たちにもパウロにも福音理解でなんら違いはなかったということです。にもかかわらず、ガラテヤの教会を脅かしている間違った教えを説く人たちは、異邦人クリスチャンにも割礼が必要であることを説き、それを強制しようとしていたのです。
しかし、その間違った教えによって得るものよりも、失うものがどれほど大きなものであるのか、パウロはこう述べます。
「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」
律法の行いによって恵みを得るどころか、キリストとは無縁の者とされ、得ていた恵みさえも失ってしまうというのです。
さて、パウロは律法による義を徹底的に否定しながら、しかし、この段落を結ぶに当って非常に示唆に富んだことを述べています。
「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」
キリストにあって信仰によって義とされるということは、ただ法律的な概念にとどまるものではないのです。ただ神との法律的な関係を改善し、罪人から義人へと身分の変化が起るというのに留まるわけではありません。
パウロは義とされることが結果としてもたらす「愛の実践を伴う信仰」こそ重要であると指摘しているのです。
義とされるための律法の行いではなく。義とされる神の恵みがもたらす愛の実践なのです。それこそがクリスチャンがキリストにあって得ている自由なのです。