2008年1月31日(木)キリストが形づくられるまで(ガラテヤ4:12-20)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の中に間違った教えが入り込んできて、教会員たちがその教えに翻弄され始めたとき、どのように正しい教えにその人たちを引き戻すのかというのは、牧師にとってとても苦労の多い話です。はっきりと間違いを正すことはもちろん大切です。しかし、高圧的な態度で臨めば、人の心はますます頑なになってしまうでしょう。
パウロがガラテヤの教会に宛てて書いた手紙は、正にそうした苦労に満ち溢れています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 4章12節〜20節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
パウロはガラテヤの教会で起っている問題について、かなり強い口調で手紙を書き起こし、ここに至るまで隙を与えないような論理詰で手紙を書き綴ってきました。
きょうの箇所は少し筆のタッチに変化が見られます。論理的に物事を語るというよりは、過去を振り返って相手の心情に訴えかけるように筆を進めています。
パウロは「兄弟たち」とガラテヤ教会の人々に呼びかけ、「お願いします」と威圧的ではなくへりくだった思いで筆を進めます。その願いとは「わたしのようになってください」という願いです。
一二節の書き出しは「わたしのようになれ」という命令形ですから、実際に耳に聞こえてくる順番で一連の言葉を受け止めると、ずいぶん威圧的とも聞こえなくはありません。また「わたしのようになれ」とは、一体どんな意味なのか、いきなり言われてもそれ自体わかりにくい言葉です。
その言葉に続いてパウロは「わたしもあなたがたのようになった」と述べます。
「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、おねがいします」
「わたしもあなたがたのようになった」というのは、「わたしはユダヤ人でありながら、律法から解放されて、律法を持たない異邦人のようになった」という意味でしょう。ユダヤ人のように割礼を受けて救いを完成させようとしているガラテヤの人々に、パウロは「あえてユダヤ人のようになろうとはしないで、律法から解放され異邦人のようになったわたしと同じでいてください」と願っているのです。
このパウロの願いが聞き入れられないとしても、それは感情の行き違いで、何かややこしく糸がこんがらがっているわけではありません。
むしろ、昔を振り返ってガラテヤの地にパウロが足を踏み入れたときのことを思うと、パウロとガラテヤの人たちとの関係はこの上ないほどの信頼関係の上に成り立っていました。
「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」
ここでパウロが昔を振り返って述べていることは、とても興味深い内容です。先ず第一にパウロがガラテヤに足を踏み入れたのは、人間的に見れば、病気というやむをえない理由でした。積極的な宣教計画によるというよりは、病が理由でたまたま立ち寄ったというものでした。
しかも、その病が具体的になんであったのかは記されていませんが、ガラテヤの人たちにとっては「試練ともなるようなこと」だったとあります。つまり、そのようなパウロの姿を見れば、普通なら「さげすんだり、忌み嫌ったり」するはずのものだったのです。にもかかわらず、ガラテヤの人たちは病のパウロを見て、悪霊の使いではなく、神の使いであるかのように受け入れてくれたというのです。
「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」とパウロが嘆くのも無理はありません。もちろん、既に述べたように何か不当な仕打ちをしたからではないことは分かりきっています。畳み掛けるようにパウロは問い掛けます。
「すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。」
確かにパウロとガラテヤの教会の人たちの間に不協和音が鳴り響いているとするなら、そして、その理由をあえて言うならパウロが真理を語っているからなのです。
しかし、それとても、パウロ自身に問題があるというわけではありません。むしろ、間違った教えをガラテヤの教会に持ち込もうとした人たちの隠れた本当の目的にこそ問題があったのです。
「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」
この残念な事態に対してパウロは「わたしの子供たち」とガラテヤの教会の人たちにやさしく呼びかけます。
「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」
パウロはまるで産みの苦しみをもいとわずに子供を産もうとしている母親のように、ガラテヤの教会の人たちの中にキリストが形づくられるようにと再び産みの苦しみを引き受けているのです。ここにガラテヤの教会に対するパウロの真摯な態度が示されているのです。