2008年1月24日(木)隷属への逆戻り(ガラテヤ4:8-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしがキリスト教とであって洗礼を受けたのは17歳のときでした。17年間、キリスト教とは関係のない世界に生きてきたわけですから、その後17年間たてば自然とキリスト教的な生き方に染まりきるかといえば、なかなかそう簡単ではありませんでした。自分が元いた世界の考え方がひょっこり顔を出したり、古い自分が自分の元いた世界に引きかえろうとしたり、戦いはつきません。
初代の教会のメンバーたちも、きっと同じような戦いにあったことは簡単に想像することができます。とくにギリシャやローマの世界にどっぷりと暮らしてきた異邦人クリスチャンにとっては、今の日本人クリスチャンと同じくらい戦いがあり苦労があっただろうと思われます。また、ときにはそうとは気がつかないうちに、福音の歩みから踏み外してしまうということも会ったのではないかと思います。
今学んでいるガラテヤの信徒への手紙では、早くも福音から離れてしまいそうなガラテヤの教会の人々をパウロは心から心配しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 4章8節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
そもそも、このガラテヤの信徒への手紙が書かれたのは、パウロの深い嘆きによるものでした。
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(1:6)
もちろん、パウロにとって「他の福音」と呼ぶに値するものは何もありません。キリスト教も数ある福音の一つなのではなく、キリスト教だけが福音と呼ぶにふさわしいものを持っているのです。ですから、パウロはただ一つしかない福音から簡単に離れていこうとするガラテヤの教会の人々を嘆かわしく思い、あきれ果てているのです。
さて、先週までの流れのおさらいになりますが、パウロは神がアブラハムに約束した恵みを相続する人は誰であるのか、誰がその資格を持つのかということを論じてきました。それは信仰によりキリストと結び合わされたクリスチャンこそアブラハムの約束を受け継ぐ相続人であると言うことでした。ユダヤ人も異邦人も信仰によって御子キリストと結び合わされて神の子とされているのです。
特に先週学んだ個所では、二つのイメージを使いながらクリスチャンが今どんな恵みの状態にあるのか、そのことをパウロは書き綴って来ました。
最初のイメージでは、未成年の相続人がイメージとして使われました。パウロによれば今や神が定めた時がやって来て、未成年者の相続人が成人して相続の権利を最大限に受けることができるのと同じように、アブラハムに約束された恵みは、民族の区別なく、キリストと結ばれて神の相続人とされた者によって最大限に受け継がれているということでした。
もう一つのイメージでは、養子縁組のイメージを用いながら、クリスチャンはキリストに結ばれて神の子として迎え入れられた者であること、従って紛れもなくアブラハムの約束の相続人であることを明らかにしました。
そのような恵みに既に与る者であるからこそ、その恵みを理解せず、軽んじようとしているガラテヤの教会の人々をパウロは嘆かわしく感じているのです。
パウロはキリスト教と出会う前のガラテヤ教会の人々をこう描いています。
「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。」(4:8)
確かにガラテヤ教会のほとんどの人は、まことの神を知らない異教の世界からキリスト教会に来た人々でした。パウロは彼らがどんな世界に今まで生きていたのかということを問題にしようとしているのではありません。そうではなく、神の定めた時が満ちた今、彼らが「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(4:9)ということを改めて指摘しているのです。
クリスチャンとなるということはまことの神を知るということに他なりません。しかし、それ以上に大切なことは、わたしたちが神を知る前に、神がわたしたちを知っていてくださっているということです。聖書の中で神がわたしたちを知ってくださるというのは、単にわたしたちのことを面識あるものとして認知しているという意味ではありません。神によって知られるとは、神によって選ばれているということに他なりません。神はキリストにあってガラテヤ教会の信徒一人一人を選んでくださり、養子として迎え入れ、相続人として約束のものを受け継がせようとされているのです。そういう恵みにすでに与っているものである、とういう事実がここでは何よりも大切な点なのです。
しかし、ガラテヤ教会の人々はその恵みを恵みとしてしっかり受け止めず、もう一度昔の状態に戻ってしまうような愚かな歩みをし始めているのです。パウロにはそのことが残念でなりません。
「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」
子とされたものはもはや奴隷ではありません。未成年であったために相続の権利を最大限に受けられなかった時代は終わって今は完全な相続人とされているのです。それにもかかわらず再び神ではない神々、支配する諸霊の元に逆戻りし、今ある恵みを放棄してしまってよいでしょうか。
パウロがここで支配する諸霊(ストイケイア)の元に逆戻りしているとして具体的に念頭に浮かべていることはガラテヤの教会のあるひとたちが「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」という事実です。なぜガラテヤの教会の人々が日や月や時節、年などを守るのかというと、それはそれらの事柄が救いにとって必要な行いだと考えているからです。パウロにとってそれは救いに与る努力なのではなく、むしろ、福音から離れていってしまう愚かの歩みなのです。
神がせっかく与えてくださった恵みを捨て去って、そこにまったく違ったものを継ぎ足す愚かな生き方こそ、わたしたちが注意しなければならない点なのです。