2008年1月17日(木)『アッバ父よ』と呼ぶ恵み(ガラテヤ4:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所には「養子となる」という意味の表現が出てきます。日本語訳の聖書ではたいてい「子とする」「子とされる」などと訳されていて、「養子」という表現を避けています。しかし、ほとんどの英語訳の聖書では同じ箇所が「養子となる」「養子とされる」などと訳されています。
日本では家の事情や経済的な理由で養子に出されるという養子に対するマイナスのイメージが強いのかもしれません。しかし、養子には「家督を継がせるために選ばれて迎え入れられる」というプラスのイメージもあることを頭の片隅に置いておく必要があります。わたしたちが神の養子として迎え入れられ、神の国を相続する恵みにあずかるものであることを改めてきょうの箇所から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 4章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。
きょうの箇所は3章の終わりの言葉を受けて議論を展開しています。つまり、3章の終わりでパウロはこう書きました。
「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(3:29)
パウロは4章に入ってこの相続人にまつわる新たなイメージを持ち出して、神が実現してくださった救いの業を説明しようとしています。パウロはここで新たに相続人が未成年である場合の説明を引き合いに出します。
パウロの説明によれば、相続人が未成年である間は後見人や管理者の監督の下に置かれ、僕と何ら変わりがないということなのです。定められた時がきて、成人となったとき初めて名実共に相続すべき財産を手に入れることになるというのです。
そのこととを神の救いの場合に当てはめて言うと、キリストが来てくださる前の時代には、約束されたものを受け継ぐべき相続人たちはあたかも未成年であったかのように「世を支配する諸霊」に奴隷として仕えていたというのです。
「世を支配する霊」と訳されたギリシア語「ストイケイア」が何を意味しているのか、その意味を確定することは、残念ながらこの短い文脈からはとても難しいといわざるを得ません。来週取り上げる予定の9節では同じ言葉がもう一度出てきます。その直前の8節で「あなたがたは…もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」とありますから、「ストイケイア」は「神でない神々」の言い換えであると考えることができるかもしれません。しかし、5節では「律法の支配下にある者を贖い出して」といわれていますから、「ストイケイア」は「律法」を指すとも考えられます。
あるいはこうも考えられるかもしれません。最初に出てくるストイケイアは「わたしたちも…世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」とありますから、ここではパウロは明らかにユダヤ人キリスト者の立場でものを言っています。それに対して後から出てくるストイケイアは「(あなたがたは)なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし…ようとしているのですか」とありますから、明らかに今度は異邦人にとってのストイケイアの話をしています。それで異邦人にとってのストイケイアは同じ言葉であっても具体的にはユダヤ人のそれとは別のものを指しているのかもしれません。
この「ストイケイア」という言葉が具体的に何を意味するのであれ、肝心なポイントは神が御子キリストをお遣わしになったとき、もはやわたしたちは、ユダヤ人も異邦人も共に未成年の相続人のように後見人や管理者の監督の下に置かれる者ではなくなったということです。もはや他の僕たちと同じように扱われる事はなくなったということなのです。
ところが、もう一つここでパウロは新たなイメージを持ち出してきます。パウロは今まで未成年の相続人の話を引き合いに出して話を進めて来ました。当然、話の展開から言えば、時が満ちて定めた期日がきたときに、もはや未成年ではなく成人した相続人として、その権利をフルに受けることができるようになった、となるはずです。
ところが、パウロは、神が御子キリストを遣わし、律法の支配のもとにある者をあがないださせたのは、わたしたちが神の養子となるためであったと続けるのです。確かにこのように話が展開する伏線は、すでに3章16節にありました。
「とろで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに』と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」(3:16)
約束されたものの正当な相続人はキリストお一人です。しかし、神は信仰によりキリスト通して信じる者たちを養子として迎え入れてくださっているのです。ですからパウロは力強くこう述べています。
「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4:7)
一方でパウロは、未成年から成人になった相続人の例えを使いながらユダヤ人も異邦人も共に今は相続の権利をフルに受け継ぐものとなったことを主張しながら、他方では養子縁組の例えを用いて、神の子ではなかったものたちが神の養子とされ、相続にあずかることができるようになった恵みを告げているのです。
そして、わたしたちが神の子とされたことは、わたしたちのうちにあって「アッバ、父よ」と叫ぶ御霊がそれを証ししてくださっているのです。
そうであればこそ、再びストイケイアの支配下に逆戻りし、神の子としての身分を放棄してしまうような振る舞いは断じてあってはならないことなのです。この神の恵みこそいつも立ち返らなければならない原点であるとパウロは考えているのです。