2008年1月10日(木)キリストに結ばれて一つ(ガラテヤ3:26-29)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世の中には様々なコミュニティがあります。そのコミュニティが存在する目的によってそのコミュニティを構成するメンバーも決まってきます。例えばクッキング教室であれば比較的若い女性が多いでしょう。町内会であれば、そこの住民しか参加することはできません。医師会であれば、医者だけがその会の構成員です。
教会はというと、個々の教会によって多少は違うかもしれませんが、生まれたばかりの赤ちゃんから高齢のお年寄りまでいます。職業も何かでなければならないというわけではありません。あらゆる職業の人がいます。言葉の問題があるために、言語ごとに集会が分かれてはいますが、しかし、どこの国の人でなければならないという規則があるわけではありません。そういう意味では身近にあるコミュニティの中では一番バラエティに富んでいるかもしれません。そうでありながら、しかし、決してバラバラの寄り所帯では決してありません。キリストを頭として一つの体のように結び合わされているのです。
きょう取り挙げようとしている聖書の個所にはこの教会という共同体の一致をもたらすものについて記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 3章26節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
きょうの箇所は今まで学んできた3章全体から見ると、誰がアブラハムの真の子孫であるのかということと直接に結びついています。今読んだ箇所の一番おしまいにあるように、「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人」なのです。これが、「だれがアブラハムのまことの子孫であるのか」を巡る議論の結論です。
パウロはここで「キリストのものだとするなら」と述べています。ここで言う「キリストのものだとするなら」というのは、単なる仮定を述べているのではありません。「キリストのものであるのかどうかわからないけれども、もし、キリストのものであると仮定したならば、アブラハムの子孫に違いない」と、こういっているのではありません。そうではなく、すでに26節で述べているように「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。さらに27節ではそれを受けて「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」といわれています。キリストに結ばれて神の子であり、キリストを着ているのですから、「キリストのもの」であるのは当然の前提です。そのようにキリストのものであるので、「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」であると断言することができるのです。
では、なぜキリストのものであるなら、アブラハムの子孫と言えるのか、パウロは既に先週取り上げた箇所でこう伏線をはっています。
「ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して『子孫たちとに』とは言われず、一人の人を指して『あなたの子孫とに」と言われています。この『子孫』とは、キリストのことです。」(3:16)
つまり、アブラハムの約束の相続人は複数の子孫たちではなく、キリストお一人なのです。しかし、キリストに信仰によって結びついた人は皆キリストを通して神の子とされ、約束の相続人とされるのです。こうしてキリストに信仰によって結びついたものだけが、アブラハムの約束の相続人となることができるのです。
ところでパウロは、信仰によってキリストと結ばれて神の子とされ、キリストとを着るものとなったものたちについて「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(3:28)と述べています。
一見、このことは誰がアブラハムの約束の真の相続人であるのかという問題にとっては蛇足のように思われるかも知れません。しかし、この言葉こそ、キリストと共同の相続人である教会がどんな共同体であるのかを深く語っているのです。
ガラテヤの教会の人々を惑わしている教えによれば、洗礼を受けた異邦人クリスチャンといえども、なお、ユダヤ人のように割礼を受ける必要があるというものでした。そこには依然として異邦人とユダヤ人区別が厳然としてあったのです。
しかし、パウロの福音の理解によれば、キリストと結ばれて一つとなり、アブラハムの約束の相続人となるということは、異邦人とユダヤ人の区別ばかりではなく、奴隷と自由な身分の者の区別、男と女の区別をも解消するものであると言うのです。
もちろん、パウロの手紙を読む限り、教会の中には、ユダヤ人と異邦人がおり、奴隷も自由人もいました。男も女もいました。その事実はキリストに結び合わされ一つとされたといっても、まったくなくなってしまったというわけではありません。違いは厳然としてあるのです。しかし、もはや神の前に約束を相続する上でそれらの区別は意味をなさなくなっていると言うのです。
これはとても大きな発言です。
ガラテヤの教会の人々を惑わしている教えは、約束の相続のために再びユダヤ人と異邦人の区別を持ち込もうとする教えです。それはキリストに結び合わされて一つとされた共同体に再びひびを入れる教えなのです。同じように約束の相続に男女の性別による違いを持ち込むことも、また奴隷と自由人の区別を持ち込もうとするようなどんな教えに対しても、その危険性を悟って警戒しなければいけないのです。それは信仰によりキリストと結ばれて勝ち得た約束の相続人としての立場を無意味なものとしてしまうからなのです。
信仰によりキリストと結ばれて一つであればこそ、教会には民族、性別、職業、年齢を越えた一致が成り立つのです。