2007年12月27日(木)アブラハムの祝福を継ぐ者は誰か(ガラテヤ3:7-14)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教が世界宗教として発展してきたことは誰の目にも明らかです。しかし、同じ旧約聖書を聖典として受け入れているユダヤ教はというと、いまだに一民族としての宗教の色を残したままで現在にいたっています。この両者の違いは、遣わされたメシアとその福音に対する理解の違いから導き出された当然の結果と言ってもよいかも知れません。またそれは、旧約聖書の律法に対する理解の違いをも含むものです。
その違いはきょうの箇所で明らかにされています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 3章7節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。

前回取り上げた箇所で、パウロはガラテヤの教会の人々に問いを投げかけました。

「あなたがたが”霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)

それについてパウロは先週取り上げた箇所の最後でこう結論付けています。

「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」(3:6)。

つまり、アブラハムが信じて義と認められたのと同じように、異邦人であったガラテヤの信徒たちも、律法の行いではなく、信じる信仰によって聖霊をいただいたのです。

きょうの箇所ではこのアブラハムの話を受けて、だれがアブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者であるのか、誰が真の意味でアブラハムの子孫であるのか、という問題が取り上げられます。

当然、ユダヤ人の理解によれば、血の繋がりのある自分たちこそがアブラハムの祝福を受け継ぐ子孫であると考えられていました(ヨハネ8:33、39。マタイ3:9参照)。そこにはこの祝福が万民のための普遍的な祝福であるという考えの入り込む余地はありません。
それに対してパウロは「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と反論します。パウロは旧約聖書創世記12章3節や18章18節に言及しながら、アブラハムのゆえに異邦人は皆祝福されるという福音の意味を取り上げています。もし、厳密に血筋を問うのであれば、異邦人はアブラハムの子孫として祝福に与ることはできません。そうだとすると、神の約束の言葉は無効になってしまったのでしょうか。創世記にある約束が今でも有効であるとすれば、どのようにして異邦人がアブラハムの祝福にあずかることが可能なのでしょうか。
パウロの理解はこうでした。アブラハムの祝福を受け継ぐ真の子孫とは、アブラハムと同じように信仰によって神と結びつく者である、と。それは異邦人にだけに当てはまる法則ではなく、ユダヤ人も同じ信仰の法則によってアブラハムの子孫なのです。それは血筋によるのでも行いによるのでもありません。

では、信仰ではなく律法を行うことでアブラハムの子孫となることはできないのでしょうか。パウロは旧約聖書申命記の言葉を引用して、律法の実行によってはそれが不可能であることを告げます。なぜなら「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです(申命記27:26)。律法を拠り所として生きると言うことは、言い換えれば律法の一点一画を落ち度無く守り行うことが求められていると言うことなのです。けれども、残念なことに律法を一点一画の落ち度も無く守れる人は一人もいません。従って律法を行うことでは誰一人としてアブラハムに約束された祝福を受け継ぐことはできず、かえって呪いを身に受けるのです。いえ、既に律法を完全に守れないことのために呪いの内に置かれているのが人間なのです。

では、どのように救いの祝福を手に入れることができるのでしょうか。信仰によってとは、いったい何を信じることによってなのでしょうか。

パウロはこう述べます。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」

律法を行うことができないために呪いのうちに置かれているわたしたちに代わって、呪いとなってくださったのです。十字架の上でわたしたちに代わって呪いとなって死んでくださったキリストを信じることによって、アブラハムに約束された救いがユダヤ人にも異邦人に及び、聖霊を受けることができるようになるのです。

パウロは3章の冒頭で、ガラテヤの信徒たちをこう嘆きました。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」

彼らは身代わりの死を成し遂げてくださったキリストの十字架から目をそらし、守ることのできない律法によって救いを完成させようと迷い出ていたのです。それはどんなに善良で敬虔な思いから出たものであったにしても、キリストの福音を無にしてしまうものなのです。それはガラテヤの信徒だけの問題ではありません。自分の行いに見返りを求め、自分の行いによって救いをわずかでも促進しようとする思いがあるところに、いつでもついてまわる危険なのです。

キリストがわたしたちの身代わりとなってくださったと信じる信仰だけが、救いの祝福をわたしたちにもたらすのです。