2007年12月13日(木)律法の行いと信仰による義(ガラテヤ2:15-21)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
宗教改革運動の主張を一言で言い表す表現に「信仰による義」という言葉がしばしば用いられています。人は行いによって義とされるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされ、救われるのである、という主張です。その主張がよりどころとしている聖書の箇所の一つは、きょう正に取り上げようとしている箇所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 2章15節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
きょう取り上げる箇所は、ガラテヤの信徒への手紙の流れの中では、前回学んだようにパウロがペトロを非難したことと密接にかかわっている箇所です。前回学んだ個所にはアンティオキアで示したペトロの態度をパウロが公然と非難したことが記されていました。今回の箇所は、パウロがなぜペトロを非難したのか、その理由を説明している箇所です。それはパウロの福音理解と深く結びついていました。しかし、それは決してパウロが生み出した新しい福音理解ではありませんでした。むしろそれは使徒たちの間で一致を見た福音理解そのものだったのです。そのことはひいてはガラテヤの教会員たちが直面しているのと同じ根を持つ問題とパウロは考えていたのです。
前回学んだ個所の最後には、福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないペトロを見たパウロが、どのようにペトロを非難したのか、その言葉が記されていました。
「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
きょうの箇所では、「あなた」と非難されたペトロをパウロと同じ立場において「わたしたち」と言い換えています。なるほど「わたしたち」ユダヤ人はいわゆる「異邦人のような罪人」ではないとパウロは言います。確かにユダヤ人というくくりで見るならば、異邦人とユダヤ人の間には厳然とした区別があるのは事実です。その違いを押し通したまま「救い」について考えようとすれば、異邦人がユダヤ人化しなければ救いはありえないという主張になってしまいます。パウロにとってペトロが異邦人との食事の席から身を引いたという事実は、その真の理由が何であれ、もう一度救いの世界にユダヤ人と異邦人との区別を持ち込み、福音の真理をゆがめてしまうと映ったのです。
では、福音の真理とは何か、パウロはこう述べます。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
つまり、イエス・キリストを信じる信仰を通してだけ、ユダヤ人にも異邦人にも救いがもたらされるというのが福音の真理であるというのです。なるほどユダヤ人は異邦人のような罪人ではないかもしれないが、しかし、ユダヤ人とても罪の赦しがなければ救いはありえないのです。そして、その罪の赦しは、イエス・キリストへの信仰によってだけもたらされるものなのです。そう信じたからこそ、ユダヤ人であるパウロもペトロも「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と告白し、救いにおいてユダヤ人にも異邦人にも何らの違いがないことを受け止めたのです。
こうして、律法を完全に行なって義とされるとする道を断念した以上、もう一度、律法による義へと立ち返るような行動をとることは、言い換えれば、ユダヤ人と異邦人との間に隔たりを設けるような福音理解は、まことの福音ではありえないとパウロは主張するのです。
パウロによれば、まことの福音は人を神に対して生きたものとするのです。それは同時に律法に対して人を死んだものとすることなのです。キリストを信じ、キリストと結び合わされるとき、人は律法に対して死んだものとなり、神に対しては生きた者とされるのです。キリストがその人のうちに生きているからです。
パウロのこの説明は抽象的で分かりにくい議論かもしれません。しかし、ここで言おうとしていることは非常に明白です。つまり、キリストを信じて義とされるということは、もはや律法を行うことによって義とされる生き方を断念することに他ならないと言うことなのです。それは、ユダヤ人に対しても異邦人に対しても同じ事なのです。それは異邦人に対して、それ以上の律法の要求を求めないということなのです。なぜなら、キリストへの信仰を通してユダヤ人にも異邦人にも十分な救いの恵みが与えられているからです。
この福音の真理に逆行することは、キリストの十字架の死そのものを不要なもの、無意味なものとしてしまうことになるのです。