2007年11月15日(木)キリストの恵みとキリストの福音(ガラテヤ1:6-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会、特にプロテスタント教会は多くの教派に分かれています。キリスト教会の内側にいる者から見れば、それはある程度理解できる事柄です。しかし、キリスト教会の外にいる人たちから見れば、あまりにも多くの教派が存在していることに驚きを禁じえないかもしれません。しかも、もっと驚きなのは、キリスト教会が一方では教会の一致を信じて、それを真面目に実現しようと取り組んでいるということと同時に、自分たちが信じていることに関して、少しも妥協しない頑固さがあるということです。特に異端的な教えとそうでないものとを峻別する点では一歩も譲らない頑固さがあります。
不思議とも感じられるかもしれませんが、しかし、教会の一致の問題と何を正統的な教えと信じるのかという問題は決して方向性が違う問題ではないのです。
きょうの箇所には「呪われよ」(アナテマ)という強い言葉が出てきます。余談ですがこの言葉は後に異端的な教えを断罪して追放する教会の用語となりました。プロテスタント教会に対抗して開かれたトリエント公会議の文書には、プロテスタントの教えに対してことごとくアナテマが宣言されています。
では、パウロはこの手紙をもってガラテヤの教会を分断しようとしているのでしょうか。自分の味方につくものとそうでない者たちとで教会を二分しようと人間的な勢力争いで必死になっているのでしょうか。そうなのでは決してありません。むしろ一つの福音の上にキリスト教会がたっていることをパウロは信じているのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 1章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。
こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。
先週はガラテヤの信徒に宛てられて書かれた手紙の冒頭の部分を学びました。この手紙の最初の部分というのは当時の手紙の形式にほぼ則って書かれていました。差出人が誰であるのか、そして、受取人が誰であるのか、また、差出人から受取人に当てられた挨拶の言葉がそこには記されています。
きょうの部分はそれに続く部分です。パウロが書いたほかの手紙と比べて、このガラテヤの信徒に宛てた手紙は、いきなり本題に入っていきます。大抵の場合挨拶の言葉に続いて、パウロは相手の教会のために神に感謝の言葉を述べたり、祈りを捧げたりするのですが、この手紙では、かなりきつい口調で直接本題に立ち入っていきます。
その問題の核心は、ガラテヤの教会の人々が「キリストの恵みへ招いてくださった方から…こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしている」という点です。パウロはこのことに驚きあきれ果てているのです。
「ほかの福音」の内容がなんであるのかについては、手紙の中で後にさらに詳しく述べられますが、具体的には、キリストを信じて救われるということに加えて、ユダヤ人と同様に割礼をも受ける必要を説いた教えです。
パウロはそのような教えを「ほかの福音」と一旦は呼びながら、しかし、「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではない」(1:7)と、その教えがそもそも「福音」と呼ばれるにふさわしくないものであることを指摘しています。
ガラテヤの教会に新しい教えを持ち込んだ人たちが具体的に誰であったのかは分かりませんが、彼らもキリストの救いを信じるという点ではクリスチャンであったに違いありません。イエス・キリストによる救いそのものを否定していたわけではなさそうですから、ユダヤ教の人々ではなかったことでしょう。ですから、彼らは自分たちの教えを「ほかの福音」とか「もう一つ別の福音」と理解していたのかもしれません。
しかし、パウロにとっては、その教えは「あなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎない」ものだったのです。
パウロにとっては「ほかの福音」も「もう一つ別の福音」存在しないのです。あるのは「キリストの福音」だけなのです。キリストが宣べ伝え、キリストをその内容とする福音だけが、福音と呼ばれるにふさわしいものなのです。
パウロは自分が受け取り宣べ伝えている「福音」を「キリストの福音」と呼んでいますが、パウロがその福音をどう理解しているのかについては、ここでは詳しくは述べていません。しかし、少なくともガラテヤの教会を惑わしている人たちが伝えているものは、この「キリストの福音」を補うものではまったくなく、それどころか「キリストの福音」を覆すものであると述べています。
では、どういう点で「キリストの福音」を覆す教えとなっているのでしょうか。まだこの時点ではそのことに詳しくは触れていませんが、パウロは6節でこう述べています。
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」
パウロにとってあの「ほかの福音」を受け入れるということは、「キリストの恵み」へと招いてくださったお方から離れてしまうことなのです。言い換えれば、ガラテヤの教会を掻き乱す者たちが宣べ伝えている「ほかの福音」は、「キリストの恵み」と相容れないものなのです。神は「キリストの福音」を通して「キリストの恵み」へとわたしたちを招いてくださっているのです。しかし、「ほかの福音」と呼ばれるものは、「キリストの恵み」にわたしたちを導くどころか、かえってそこから引き離すものなのです。「キリストの福音」こそが救いが恵みによるものであることを鮮やかに示しているのです。それに対して「ほかの福音」は、この救いの恵み性、恩恵性を甚だしく曇らせてしまっているのです。
さらに、ここで注目すべき点は、パウロは8節で「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と述べている点です。パウロは自分と敵対者という構図で物事を考えているのではありません。自分すらも「キリストの福音」に反する可能性も視野に入れているのです。パウロは自分という権威の上に立って異端的な教えを断罪しているのではないのです。「キリストの福音」という権威に照らして、自分の教えなり、他の人々の教えなりを判断しているのです。言い換えれば、福音を伝えるものも聴く者も、「福音」という権威の前に自分自身を真摯に立たせる必要があるのです。