2007年11月8日(木)キリストの救いと恵み(ガラテヤ1:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
今回から新しい学びに入ります。パウロが書いた手紙、ガラテヤの信徒への手紙からご一緒に学んで行きたいと思います。この手紙はパウロが書いたローマの信徒やコリントの信徒宛ての手紙と比べて、半分の分量しかありません。しかし、短い手紙にもかかわらず、決して内容が薄いというのではないのです。それどころか、この手紙はローマの信徒への手紙と並んで、宗教改革運動を導き動かしていく神学的な示唆を与えた重要な手紙です。
またこの手紙は一読してわかるように、とても論争的です。しかし、それはただ机の上の神学的な議論なのではなく、クリスチャンとしての生き方そのものがかかっているとても大切な内容の手紙です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ガラテヤの信徒への手紙 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。
パウロの手紙はどの手紙もそうですが、一定の手紙の書き方に従っています。そういう意味では、きょう取り上げる箇所も型どおりの形式に従っているといえるかもしれません。差出人が誰であるのか、また誰に宛てて書いたのか、そして、型どおりの挨拶の言葉が続きます。
もちろん、パウロの書いたすべての手紙の冒頭部分を読み比べてみると、形式的とはいってもそれぞれの手紙には、同じ差出人であっても自分を紹介する言葉は手紙ごとに少しずつ違っています。あるいは挨拶の言葉にしても、すべての手紙が同じ言葉で挨拶を記しているわけではありません。それぞれに特徴をもった書き方がなされているのですが、ガラテヤの信徒への手紙はその中でも他の手紙にはない特徴が見られます。
さて、いきなり一つ一つの節や言葉を追って見ていく前に、この手紙についてのある程度の予備知識をもっておいた方が、全体の中できょうの箇所が何を扱おうとしているのかが理解しやすいのではないかと思います。「木を見て森を見ない」と言うことにならないためにも、まずは簡単にこの手紙の概略を述べておきたいと思います。
この手紙が書かれたのはガラテヤ地方の教会の信徒たちに起った問題がきっかけでした。詳しいことについては追々学んでいくことにするとして、1章6節に記されているところによれば、それはパウロを呆れさせるほどの出来事でした。
「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」
具体的にその間違った教えは、異邦人クリスチャンも割礼を受けなければならないということを説いていました。そのことはキリストを通して与えられる「恵みによる救い」という福音の内容そのものにかかわる重大な問題です。ですから、パウロは激しい口調で手紙をしたためているのです。
パウロはこの手紙の中で、ただ単に救いは恵みによって与えられ、信仰をもって受け止めるべきものであるという点に留まらず、このことがもたらすクリスチャンの自由の問題にも触れています。こうしてパウロはガラテヤの教会におこった混乱が、クリスチャンとして生きる者の自由と生活に深くかかわる問題であることをも指摘しているのです。
こうした手紙の展開について、これから順を追って学んでいこうとしているわけですが、きょうはその手紙の冒頭部分を取り上げようとしているわけです。
さて、途中まで言いかけましたが、手紙の冒頭部分は手紙固有の形式で書かれてはいるのですが、他の手紙では見られない表現がいくつか見られます。
先ずパウロはこの手紙の差出人である自分を紹介するときに自分が使徒となったのは「人々からでもなく、人を通してでもなく」と述べてから、「イエス・キリストと…神とによって使徒とされたパウロ」と自分を紹介しています。他の手紙では、単に「召されて使徒となったパウロ」とか「神の御旨によって召されて使徒となったパウロ」とかあるいは「神の御旨によって使徒とされたパウロ」というように誰によって使徒とされたのかを直接述べているのに対して、この手紙ではわざわざ「人間によってではない」という言葉が繰り返されています。
こう自分を表現するのには理由があったはずです。一つにはガラテヤの教会に間違った教えを持ち込んだ人たちが、パウロが神から召された使徒であることを強く否定していたのかもしれません。つまり、信仰だけによって救われると教えるパウロの教えは人間から出たものだと吹聴していたのかもしれません。そうであればこそ、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと父である神とによって使徒とされたパウロ」と自分のことを表現したのでしょう。
また、このように自分を紹介することで、間違った教えを説いて回っている者たちこそ人間的な教えに翻弄される者たちであることを暗に指摘しているのでしょう。つまり、この手紙の差出人を手紙の形式に従って冒頭に置きながら、同時にこの手紙の教えが人間からのものであるのか神からのものであるのか、そのことを手紙の読者に問い掛けているのです。
この手紙の書き出しのもう一つの特徴は、挨拶の言葉に続く説明文です。
「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
他の手紙と同じように、手紙の差出人と受取人を記した後で先ず一旦は挨拶の言葉を記します。しかし、「恵みと平和」の源である主イエス・キリストについて、4節で長々と説明を加えます。それも、クリスチャンにとっては既によく知られているはずの事柄です。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」
パウロがこのことを記すのにもやはり特別な意味がありました。それはガラテヤの教会に持ち込まれた教えが、ご自身を身代わりの犠牲として捧げたキリストの救いの業をまったく無にしてしまうからです。
こうして、パウロはこれから述べようとしていることが、いかにキリスト教の救いの本質にとって重大なことであるのか、そしてそれが神の御心といかに一致しているのか、そのことにこの手紙を読む者の注意を払うように促しているのです。