2007年11月1日(木)復活のキリストの命令と約束(マタイ28:16-20)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教会が今日まで存続しつづけることができたのは、復活のキリストとの出会いという弟子たちの体験が大きな理由の一つです。このことがなければ十字架のキリストを前に逃げ出してしまった弟子たちは、そのまま二度と集まってくる事はなかったでしょう。そして、復活のキリストがお命じになったことを弟子たちが忠実に守ってこなければ、はやりキリスト教会の火はいつしか消えていたかもしれません。さらに、もし、お命じになったキリストがその約束を果たされなかったとしたら、やはりキリスト教会はいつのまにか姿を消していたことでしょう。
きょう取り上げようとしている箇所には、権威ある復活キリストとの出会いと、そのキリストがお命じになり、約束してくださった言葉が記されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 28章16節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

きょうでマタイによる福音書の学びは最後となります。このマタイによる福音書の最後を締めくくっているのは復活のキリストの言葉です。そのキリストの言葉は三つのことを語っています。その一つはご自分の権威についての言葉です。二番目は弟子たちに対する命令の言葉です。そして、三番目には復活のキリストが約束してくださった言葉です。復活のキリストが残してくださった三つのことから学んで、マタイによる福音書の学びを締めくくりたいと思います。

先ずはじめに、ガリラヤに戻った十一人の弟子たちに復活のキリストは出会われて、こうおっしゃいました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」

この世の目から見れば、ユダヤの最高機関からもローマの総督からも罪人、犯罪人の一人として処刑されたイエスが、今やご自分の最高の権威を宣言しているのです。ユダヤの権威でもない、ローマの権威でのない、天と地の一切の権威を持つお方として、復活のキリストは弟子たちの前に立っていらっしゃるのです。
この地上の権威者たちは神からの権威が与えられたとしても一時的なものでしかありません。死と共にその権威はその人から失せ去ってしまいます。また、その権威はけっして天に通用するものではありません。まして、横暴にその権威を手に入れた者は、まことの権威者とは呼べないものです。
しかし、死を打ち破られたキリストの持つ権威は死をも超えて永続的であるばかりか、地上の世界はもとより天上の世界にも通用する一切の権威なのです。

聖書は別の箇所でこのキリストの権威についてこう記しています。

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェソ1:20-22)

実に復活のキリストはまことの権威を帯びたお方として、弟子たちの前に姿をあらわし、弟子たちに語りかけてくださっているのです。その権威に満ちた復活のキリストは弟子たちにこうお命じになりました。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

「だから」というのはいうまでもなく、復活のキリストの権威から引き出されている言葉です。キリストには天と地の一切の権威が与えられているがゆえに、「だから…」と続くのです。

「だから」どうせよとお命じになるのでしょうか。

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」…これが一切の権威を授かったキリストがお命じになっていることです。

キリストが最高の権威者であるならば、すべてのものが膝を屈めてキリストに服従すべきなのは当然のことです。しかし、キリストはすべての民を「弟子とせよ」おっしゃるのです。「神の国の臣民とせよ」でもなく「奴隷とせよ」でもないのです。「弟子とせよ」とおっしゃるのです。
しかも、それは、「洗礼を授けること」と、「教えること」によってなのです。地道な宣教活動を通してありとあらゆる国民を弟子とすることがキリストの御心なのです。
天と地の一切の権威を帯びたお方がその力を振るってあらゆる国民を瞬く間に征服してしまえば話が早いと思うかもしれません。しかし、キリストは弟子たちの手を通して「洗礼を授けること」と「教えること」によってそのことを実現されることを望んでいらっしゃるのです。
この地道な宣教活動に安易な近道を望んではいけないのです。土の器にすぎない弟子たちが権威に満ちたキリストの命令を地道に実行するのです。

しかし、復活のキリストは弟子たちを無謀な世界に送りっぱなしにするのではありません。派遣する弟子たちに約束してこうおっしゃいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

復活のキリストの言葉を聞いた十一人の弟子たちはやがてはこの世を去りました。世の終わりまで生き延びた弟子は一人もいません。「世の終わりまで」というのは人間である弟子たちには余りある言葉です。
しかし、キリストはただ単に十一人の弟子たちのためだけにそうおっしゃったのではありません。それはキリスト教会全体へのお言葉でもあるのです。神の民である教会は、共にいてくださるこのキリストの言葉を信じて、宣教の業に励んでいるのです。復活の主イエス・キリストが世の終わりまでわたしたちと共にいてくださるので、わたしたちはなおもすべての国民を弟子とする働きにいそしんでいるのです。