2007年10月25日(木)復活のキリスト(マタイ28:1-15)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

新約聖書に残された四つの福音書の中には、十字架と復活の記事がどれにも共通に記されています。もし、この二つの出来事がなければ、キリスト教そのものが成り立たないといってもよいくらい、この二つの出来事はキリスト教にとってもっとも重要なメッセージです。しかし、考えても見れば十字架と復活ほど人を躓かせる出来事はありません。ローマ帝国の裁判で犯罪人として処刑された人物をいったい誰が世界の救い主として受け入れることができるでしょうか。また、死んだはずの人間がただ息を吹き返したと言うばかりではなく、一切の権威を持つ者として天に挙げられたということをだれが抵抗なく受け入れるでしょうか。
しかし、それほど困難なものを、あのイエスを捨て去って逃げてしまった弟子たちが命を賭けてでも宣べ伝えている現実を知るときに、弟子たちをそこまで変えてしまった何かを知りたいと思うのも当然の興味であろうと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 28章1節から15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

番組の冒頭で十字架と復活の出来事は四つの福音書がどれも共通して伝えているキリスト教会にとって大切な事件であるということを述べました。しかし、それぞれの福音書が伝える出来事は、同じ出来事でありながら福音書ごとに少しずつ異って伝えられています。それは十字架の出来事を伝える部分よりも、復活を描く部分で特にその違いがおおきく目立っているように思われます。「これだけおおきく話が食い違っているのだから、キリストの復活はやはり作り話だったのだ」と言われてしまうかもしれません。しかし、それは福音書をあまりにも浅くしか読んでいないか、あるいは最初から復活などありえないという前提で福音書を読んでいるに過ぎません。
なるほど、マタイによる福音書とマルコによる福音書を読み比べただけでも、受ける印象はかなり異なります。マルコによる福音書は恐怖のあまり震え上がり、正気を失ってしまう婦人たちの話で福音書が閉じられています。
それに対してマタイによる福音書は、恐怖のあまり震えあがり死人のようになってしまうのは墓を番していた番兵たちで、婦人たちは恐れながらも大いに喜んで墓を立ち去ったと記します。
この二つの福音書が伝える内容を調和させることはほとんど困難に近いものがあります。おそらくは、復活のその日の様子を生々しく伝えているのはマルコ福音書の方でしょう。復活という出来事は人間の理解をはるかに超えた事件です。予期しない事件に、それも常識をはるかに超えた出来事に遭遇して平常心をたもっていることは誰にもできないことです。そういう意味でまるで信仰のかけらも見られないほど婦人たちが慌てふためく様子を描いているマルコ福音書は率直過ぎるくらいに出来事を正確に伝えているのです。
マタイ福音書にも確かに復活の出来事が持っている常識を超えた恐ろしさが描かれていないわけではありません。事実、番平たちは恐ろしさのあまり震え上がっていました。婦人たちにもまったく恐れがなかったわけではありません。しかし、マタイ福音書は復活の出来事を事件その日の観点から描いているというよりも、むしろキリストの復活という出来事がもっている喜びの知らせを知った者として出来事を回想して記しているのです。ですから、マタイ福音書はキリストの墓を訪れた婦人たちが、復活の知らせを聞いて恐れると同時に、大いに喜んだと記すのです。事実、マタイ福音書が復活の出来事を記すときには、キリストの復活の事件はただ単に恐ろしい出来事なのではなく、そこには新しい命への希望が約束された喜ばしい出来事として理解されていたのです。そういう意味で、マタイによる福音書は出来事そのものを客観的に伝えるというよりも、このキリストの復活がもたらす喜びをメッセージとして復活の事件を記した記事に記しているのです。
実際、キリストの復活が単に恐ろしくて震え上がるほどの出来事だけであったというのであれば、逃げ出した弟子たちを再び立ち上がらせる力とはならなかったことでしょう。そういう意味で、マタイによる福音書は「復活」の知らせを聞いて恐れながらも喜ぶ婦人たちの姿を特別に描いているのです。

キリストの復活について語るマタイ福音書が持っている特徴は、ただ復活の喜びを伝えるという点ばかりではありません。マルコによる福音書には結局一度も復活のキリストご自身は姿をあらわさないままに福音書が閉じられてしまいます。マルコ福音書がなぜそのような不思議な終わり方をしたのかは分かりません。しかし、マタイ福音書は謎のまま福音書を終わらせることはしません。復活のキリストご自身と婦人たちの再会までを書き残しているのです。
確かに、墓が空っぽであるという事実はいろいろな解釈が成り立つでしょう。しかし、復活のキリストご自身が現われたというのは墓が空であるという以上に何が起ったのかを有力に物語る証拠です。
こうしてマタイによる福音書は復活がもたらす喜びと復活のキリストが現われてくださったことを描くことで、キリストの復活を活き活きと伝えているのです。このキリストは今もなお生きてわたしたちを救いへと招いてくださるお方なのです。