2007年10月4日(木)人の罪と十字架の救い(マタイ27:27-44)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
讃美歌の中に、キリストの十字架の場面をテーマにした歌がたくさんあります。その一つに「あなたも見ていたのか」という歌があります。
「あなたも見ていたのか、主が木にあげられるのを。ああ、いま思いだすと、深い深い罪に、わたしはふるえてくる」
この歌は自分をキリストの十字架の場面に置いて歌ったものです。十字架のキリストを客観的に描くのではなく、それを眺めている自分の内面を歌い上げた歌です。
きょう取り上げる箇所はキリストがいよいよ十字架にかけられる場面です。この場面ではキリストご自身が動作の主語として描かれることはほとんどありません。ただ差し出されたぶどう酒を飲まなかったということだけがキリストを主語として記されます。その他の文章はすべて十字架のキリストを取り巻く人々の行いが記されているのです。その一人一人に自分を置き換えて出来事を眺めてみると、まさにあの讃美歌のように深い深い罪に身も心も震えてきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 27章27節から44節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
きょうの箇所には裁判の席から、刑場へと引かれて行き、十字架に掛けられるキリストの姿が描かれています。しかし、実際に描かれているのは、キリストを侮辱する兵士の姿であったり、刑場を通りかかる人々の嘲る姿であったり、祭司長たちや律法学者、長老たちの侮りであったり、果ては一緒に十字架につけられた犯罪人たちのののしりの言葉であったりします。
先ずはじめに描かれるのは、総督官邸での侮辱的な扱いです。ユダヤ人の王として裁かれたキリストを、ローマの兵士たちはこれでもかというほどに小ばかにします。なるほど真紅の外套に冠、笏(しゃく)といえば、王の権威を象徴するにふさわしい装いです。しかし、キリストが身にまとわされたのは、兵士の一人が身にまとっていたマントに過ぎません。そればかりか、かぶせられた冠は茨の冠、手に持たされたのは間に合わせの葦の棒です。「ユダヤ人の王、万歳」と慇懃(いんぎん)にひざまずきながら、たちどころに笏として与えた葦の棒を取り上げて頭を叩き、唾を浴びせる様です。
そこに描かれるのは惨めなキリストの姿ではなく、狂ったように日ごろの鬱憤を晴らす人間の罪の悲惨さです。
通行人たちは誰一人としてキリストに対して同情を寄せるものなどいません。もちろん、十字架につけられるほどの罪人に同情などしようものなら、自分も仲間と思われるかもしれないという恐れも手伝ったのかもしれません。どこで耳にしたのか、キリストを訴えた偽りの証言の言葉を繰り返してののしります。
「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
祭司長、律法学者、長老たちまでもイエスを侮辱します。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
彼らこそ無罪のキリストを有罪へと仕立て上げた張本人たちです。その言葉には良心の痛みなど少しも感じられません。むしろ、有罪判決という事実が彼らの悪いはかりごとをすべて正しいものにしてしまったかのようです。結果が有罪なのだから、自分たちの偽りの主張は正しかったのだと言わんばかりです。
挙句の果て、キリストの両隣に一緒に十字架につけられた犯罪人たちも同じようにキリストをののしり始めます。まるで主犯格のように真中に十字架につけられたキリストが、仲間から裏切られ馬鹿にされているような光景です。
しかし、ここまでの出来事を綴ってきたマタイは、キリストが反論する姿も痛みに苦しむキリストの姿も何も描いてはいないのです。むしろ人々の様子を淡々と描いているのです。
そうして描かれる出来事は人々の罪深さを描くと同時に、詩編22編に描かれれている出来事を成就さえしているのです。
「主に頼んで救ってもらうがよい。 主が愛しておられるなら 助けてくださるだろう。」
と詩編22編はメシアを嘲笑い唇を突き出し頭を振る人々の様子を描きます。
また、メシアの「着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」人々の姿を詩編22編は描いています。
このことが起ったのは聖書の言葉が成就するためであったと書きはしませんが、詩編の22編の言葉を知る者には、マタイがここで何を描こうとしているのかは明らかです。人々の罪深さの中で、キリストは聖書の言葉どおりに救いの御業を成し遂げて下さっているのです。
キリストを十字架につけた人々の罪は計り知れないほど大きいものでした。しかし、その罪深さをも超えて、キリストは救いの御業を成し遂げてくださるお方なのです。