2007年9月27日(木)罪深い人間と罪なきキリスト(マタイ27:11-26)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会で古くから唱えられてきた使徒信条の中に「ポンテオ・ピラトのものに苦しみを受け」というくだりがあります。イエス・キリストはローマの総督ポンティオ・ピラトの下で裁判を受け、十字架での死刑を言い渡されたのです。このポンティオ・ピラトはこのイエスの裁判を担当したという理由で、歴史にその名前が末永く記されていますが、もし、この事件にかかわらなかったとしたら、それほど名前の残る有名人物ではなかっただろうと思われます。
また、ピラト自身にとっても、この事件が後の世界史を大きく動かしていく動因ともなることを予想だにしなかっただろうと思います。ピラトにとっては総督としての自分の在位、わずか十年のうちの一コマに過ぎない、事件でしかなかったかもしれません。
しかし、それでも、ピラトは間接的にイエスの無罪潔白を証ししているのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 27章11節から26節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
前回はイエスを裏切ったユダの最後を見ました。再び場面の中心には裁判の場に立たされたイエス・キリストが描かれます。ユダヤ最高法院は相談の上、イエスをローマから派遣された総督の手に委ねます。前回も触れたとおり、ユダヤ人たちには死刑の権限がなかったからです(ヨハネ18:31)。しかし、これもまた考えてみると奇妙な話です。確かに、ヨハネ福音書に記されているとおり、ローマ帝国の支配下におかれているユダヤ人たちには死刑を行う権限がなかったのかもしれません。しかし、イエスを殺そうと思えば、石打にしてしまうこともできたのです。事実、後の時代にキリスト教会最初の殉教者ステファノはユダヤ人からの石打にあって命を落としました(使徒言行録7:57-58)。しかし、ユダヤ最高法院は暴力的な方法に訴えないで、わざわざ合法的な手続きをとって確実にイエスを十字架刑にしようと企てているのです。いかに用意周到に事を運んでいるかが伺われます。
きょうの場面はいきなり総督の尋問の言葉で始まります。
「お前がユダヤ人の王なのか」
この裁判にはユダヤの最高法院が出した結論、「イエスは神を冒涜する者である」という論点はどこにも出てきません。総督ピラトに訴え出るときには、ちゃんと世俗の裁判に通用する訴えをユダヤ人たちは用意していたからです。ルカによる福音書はユダヤ最高法院が用意した訴えの言葉をこう記録しています。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(ルカ23:2)
つまり、単に宗教的な事件ではなく、ローマ帝国の基盤を揺るがす謀反人としてイエスを訴え出ているのです。この訴えを受けてピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。
ところが、ピラトにはこの訴訟事件がユダヤ人の妬みからでていることはすぐに感じ取ることができました(27:18)。この手の謀反を起こす人物は政治的・宗教的な確信犯であることが多いにもかかわらず、傍で観ていたピラトが思わず「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と口にしてしまうほど、謀反を働くような王らしからぬ姿だったのです。それは決してふてぶてしくだんまりを決め込んでいる姿には映りません。ピラトには「不思議」と思えるほどの姿であったとマタイ福音書は証言しています。
そんなピラトの心証から早くこのイエスを釈放し、裁判を終えてしまいたいとピラトは願ったのでしょう。過越の祭りの時の慣習に従って囚人の一人を解放することを提案します。ところが、そのピラトの提案も民衆を扇動するユダヤ最高法院の声に押し切られてしまいます。扇動された民衆はバラバを釈放し、イエスを十字架刑に処することを口々に叫んだのです。
この民衆の叫びに、ピラトは自分の確信を投げかけます。
「いったいどんな悪事を働いたというのか」
イエスにはどんな悪事も見出せないというピラトの証言なのです。そう確信しているからこそ、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言い切ることができたのです。
しかし、他の誰でもないピラト自身がイエスの無罪を確信し証ししながら、結局はイエスを十字架へと送ってしまうのです。それは、「かえって騒動が起こりそうなの」を恐れたピラトの政治的な判断だったのです。混乱が生じて暴動が起るよりは、一人の潔白な人間の命がなくなっても止むを得ないと思ったからです。それは自分の責任のもとにある地域の安定を願ったということもあるでしょう。しかしそれよりももっと、自分の地位が安泰であることも望んだからでしょう。
こうして総督ピラトの下での裁判を通して、人間の罪深さが顔を出し、その罪深さを通してキリストの潔白さが明らかに証しされるのです。