2007年9月20日(木)ユダの最期(マタイ27:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
十二弟子の一人、ユダについての関心は尽きることがありません。ユダは結局救われるのでしょうか。ユダの生涯は結局イエスを裏切る神の道具でしかなかったのでしょうか。いや、そうではなく、サタンの道具だったのでしょうか。ユダの生涯はお世辞にも祝福された人生とは言えませんが、それでは呪われた人生だったのでしょうか。ユダは自分の意志で呪われた道を選んだのでしょうか。疑問をあげれば尽きるところがありません。しかし、聖書はこの疑問にほとんど答えてはいません。
今日取り上げる箇所もユダの最後を淡々と描いているだけです。そして、ユダのしたことが聖書の預言の言葉とどのように結び付くのかをマタイによる福音書は描き続けています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 27章1節から10節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」
先週はイエスが散々侮辱され暴力が振るわれるのを横目に、イエスなど知らないと三度もイエスとの関係を否定したペトロの姿を学びました。
夜が明けるとユダヤ最高法院の議員たちは再びイエスを殺そうと相談します。すでに、26章59節によれば最高法院では「イエスを死刑にしよう」として召集されたことがのべられていますから、もう一度殺そうと相談するのは蛇足のように思われるかもしれません。ヨハネによる福音書はその辺りの事情をもう少し詳しく書いています。
ヨハネによる福音書の18章31節によればローマ帝国の支配下にあったユダヤでは人を死刑にする権限はユダヤ最高法院に与えられてはなかったのです。ですから、合法的にイエスを殺すためにはローマ帝国から派遣された総督の判決が必要だったのです。そのためにわざわざイエスを総督ピラトのもとへと引っ張っていく必要があったのです。その算段つけるために相談していたのでしょう。
さて、マタイによる福音書はそこから場面をピラトの下での裁判へとは移さずに、イエスを裏切ったユダの最後について記します。ユダの最後について書き記しているのは四つの福音書の中で、ただマタイによる福音書だけです。もっとも使徒言行録の中にも事故か自殺かは言明していませんが、ユダがただならない死に方をしたことが記されています(使徒言行録1:18)
マタイによる福音書だけがなぜこのユダの最後についてわざわざ話の流れを遮って書き記したのかはわかりません。
なるほど、直前にペトロの話が記されていましたので、それとのバランスからもっと悪者のユダを登場させたのかもしれません。しかし、それにしても先週学んだペトロと裏切り者のユダのことをここで比較しても両者の違いはそれほど大きくないようにも感じられます。
ペトロは打ちたたかれ侮辱されているイエスを横目にしながら、最後まで自分はイエスを知らないと言いとおしたのです。鶏が鳴いてハッと我に帰りはしましたが、大祭司の屋敷の中庭から外へ出て泣くのが精一杯でした。
裏切り者のユダはと言うと、イエスが有罪の判決を不当にも受けたことを耳にするや、祭司長や長老たちの所へ行って、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って自分の罪を告白します。しかも、受け取ったお金はつき返し、受け取ってもらえないとわかると神殿に投げ込んでその場を立ち去ったのです。
ここまでを比べる限りでは、ペトロよりもユダのほうが自分のしたことを認識して悔いているようにもみえます。
ユダがまことに悔い改めたかどうかは、神だけがご存じですので、分を超えて人を裁くことはすべきことではないでしょう。ただ、ひとつだけユダがしてペトロがしなかったこと、逆にペトロがしてユダがしなかったことがあります。
ユダは自分で自分を裁いてしまいました。いわば、自分で自分に死を宣告し、自分で死刑を執行してしまったのです。同様にペトロも自分のしたことを後悔したには違いありません。しかし、神のさばきを差し置いて、自分で自分を裁くことはしなかったのです。
逆にペトロは自分を裁いてしまう前に、自分を神の恵みと憐れみにゆだねたのです。もちろん、鶏が鳴いて、中庭から外へ出て涙を浮かべたときは、後悔する余裕はあっても、自分を裁いたり、神の恵みに身をゆだねたりするところまで考えが及ばなかったかもしれません。しかし、このあと復活のイエスから再び神の国の働きをゆだねられるときには、すべてを神の恵みにゆだねていたのです。
しかし、ユダにはそれがありませんでした。というよりも、その道を自分で塞いでしまったのです。ユダにとってもっとも残念なことは、イエスを裏切ったこと以上に、その裏切りの罪の解決を神の御手にゆだねようとしなかったことです。ユダは自分の罪に失望し、同時に神の恵みにも希望と期待を持たなかったのです。
ところで、マタイによる福音書にもう少し丁寧に目をとめてみると、ユダとペトロを比較しているわけでもないのです。ユダの悲惨な最期を描きはしますが、それについてのコメントがあるわけではありません。
むしろユダとユダヤ最高法院との間のやり取りを通して、間接的にイエス・キリストがどういうお方であるのか描かれているのです。
まず、ユダの口からはイエスが「罪のない人」だと飛び出します。それにもかかわらず。罪のない人の血を売り渡すことをしてしまったのです。間接的にですがユダはイエスの潔白を証言しているのです。
また、突き返されたお金を受け取らない祭司長や長老たちは「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と拒絶します。しかし、突き返すことで、自分たちが不正なやり方で潔白な人の血を流そうとしたことを証ししているのです。人を不正な手段でおとしめるために使ったお金だからこそ、神殿には入れてはならないのです。ここでも、間接的にイエスが潔白であることが述べられているのです。
そして、最後にマタイ福音書は旧約聖書の預言者の言葉を引用して、このように預言の言葉がイエスによって成就したと締めくくります。人の罪深さがイエスを十字架の死に追いやるのですが、しかし、その背後に神の救いに対する深いご計画をマタイ福音書は描いているのです。