2007年8月23日(木)御心を求める祈り(マタイ26:36-46)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人は独りでいるときに孤独を感じます。しかし、大勢でいるときに、そのうちの誰とも心が通わないときにはもっと大きな孤独感を感じます。イエス・キリストのご生涯はある意味で孤独な生涯であったと言えるかもしれません。十二人の弟子たちに囲まれながらも、しかし、神の御心を深く理解した上でキリストに従ってきたわけではない弟子たちでしたので、キリストとは肝心なところで心と行動が一致しないことがありました。特に十字架に向かわれる最後の数日間は弟子たちと共に過ごしているようで、しかし、孤独なキリストでした。きょうのゲツセマネの園での祈りの場面でも、孤独なキリストの姿が描かれます。もっとも、父なる神との関係で言えば、もっとも親密な交わりの中でイエス・キリストは祈りに専念されたのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章36節から46節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
きょうの箇所は有名な「ゲツセマネの園の祈り」と呼ばれる場面です。最後の晩餐を弟子たちと共にしたイエス・キリストはエルサレムの城壁から外へ出て、オリーブ山にある園へと向かいます。
その道すがら、弟子たちにやがて起ろうとしている深刻な事態を告げました。羊飼いは打たれ、弟子たちは散らされるという予告です。しかも、弟子の筆頭であるペトロでさえ、キリストを三度知らないというであろうと告げられるのです。そんなことを告げられた弟子たちと、それを告げざるを得なかったキリストはやがてゲツセマネと呼ばれる園にたどり着きます。きょうの場面はここから始まります。
それだけショッキングなことを告げられたのですから、弟子たちの動揺もどれほど大きかったことでしょう。きっと興奮のあまり眠れないことだったでしょう。
しかし、園に到着して、この重大な時を迎えようと共に祈ろうとするキリストでしたが、弟子たちの方はといえば、あれほどの重大な予告を告げられたにもかかわらず、それほど事の重大さを理解していなかったようです。それもそのはずでしょう。皆が口をそろえて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と自分の力を信じていたからです。神の御心を真摯に受け止めるよりも、自分の力に過信して、祈ることすら忘れてしまっていたのです。
このゲツセマネの祈りの場面は、そうした弟子の姿と、神の御心を尋ね求めて止まないキリストの姿が対照的に描かれています。これから起ろうとしていることは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と簡単に言ってのけることができるほど、生易しいものではないのです。イエス・キリストが受けなければならない杯、十字架の死という罪のための身代わりの死は、苦しみに満ちたものだからです。それは肉体的な痛みもさることながら、罪に下される神の怒りを引き受けることでしたから、それに耐えうることはとうてい人間にはできないことなのです。
弟子たちと共に祈ろうとするキリストについて、「そのとき、悲しみもだえ始められた」と描かれるのは、ただの弱音や臆病からくるものではありません。イエス・キリストは罪に対する神の怒りの恐ろしさを誰よりもよく知っていたのです。そうであればこそ、ゲツセマネの園で祈るキリストの祈りは真剣です。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
イエス・キリストにかつて弟子たちに教えたとおり、自分でも祈りました。それは祈る前から必要をご存知であられる父なる神に対する祈りです。何でもご存知である父なる神の御心によって、自分自身を克服していく祈りです。キリストの祈りは、自分の願いをまったく述べない祈りではありませんでした。そうではなく、イエス・キリストは願いを率直に述べたのです。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
しかし、そのすぐ後で、この願いが父なる神の御心とどう調和し、どのように聞き挙げられるのか、神の御心を受けいれる姿勢を貫き通されたのです。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
弟子たちは、本来なら、この悩み苦しむキリストと共にゲツセマネの園で祈りのパートナーとなるべきでした。イエス・キリストもきっとそのことを願って弟子たちを伴ってゲツセマネの園にやってきたのでしょう。そして、その中でも特に重要な役割を担うペトロやゼベダイの子たちをご自分の側近くに置かれたのでしょう。
しかし、弟子たちはイエス・キリストの期待に応えることはできませんでした。「彼らは眠っていた」と聖書は報告しています。それも一度ならず、三度も祈るキリストと眠りこける弟子たちの姿を聖書は描いているのです。
もちろん、イエス・キリストが味わったこの孤独な祈りも、神の深いご計画の中にあるとはいえ、しかし、弟子たちがその責任を免れることができるというものではありません。イエス・キリストは弟子たちにおっしゃいました。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
ほんとうに弟子たちは心が燃えていても、肉体が弱かったために眠りこけてしまったのでしょうか。なるほど、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」という言葉は燃えていたのかもしれません。しかし、神の助けを求める点で、少しも燃えてはいなかったのです。だからこそ、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っている必要があったのです。このキリストの言葉は今もなお真実です。熱心で勇ましい言葉に燃える時にこそ、誘惑に陥らないように、キリストと共に祈ることが大切なのです。