2007年8月2日(木)イスカリオテのユダの罪(マタイ26:14-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新約聖書の出来事の中で一番説明が難しいのは、おそらくイエスを裏切ったユダの裏切りのことではないかと思います。いったいわたしたちはユダの裏切りの記事からどんなことを学ぶべきなのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章14節から25節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨30枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」
きょうの箇所の出だしは「そのとき」という言葉で始まります。話のつながりから言うと、直前には先週学んだ、高価な香油注ぎの記事が記されています。そこでイエスがおっしゃられたことはこうでした。
「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」
つまり、「わたしを葬る準備をしてくれた」というイエスの言葉をまた別の違った意味で実践したのが、ユダであるかのような書きっぷりです。なるほどユダもイエスを葬り去る準備をしたせいで、どの福音書にもユダのなしたことが後々の時代までも語り継がれています。それは高価な香油を注いでイエスの葬りの備えをした女性とは対照的です。
しかしまた「そのとき」というのは直前の文脈だけをさしているとは思えません。香油を注いだ話の一つ前にはユダヤ最高法院の人々がイエスを逮捕し殺害しようとする計画を話し合っていたことが記されています。しかし、彼らの計画では過越の祭りの最中にそれを実行するのはリスクが大き過ぎるということで、実行をためらっていたのでした。そんな「そのとき」、渡りに舟ではありませんが、ユダがやって来てイエスを売り渡す話を持ちかけてきたのです。
ところで、このユダという人物は、福音書の中では「イスカリオテのユダ」と呼ばれています。おまけに必ず「裏切り者の」という修飾語がついて回っています。
そのユダがなぜイエスを裏切ることになったのかということは、当然後の時代の人々にとっては謎でありまた興味の対象でもあります。なるほど、彼だけが他の弟子たちと違って「ケリオテ」の出身者でした。北部のガリラヤの出身者ではなく、パレスチナ南部の出身です。もっともそれは「イスカリオテ」の意味を「ケリオテの人」という意味に理解した場合の解釈です。「イスカリオテ」の意味が「シカリ派の人」という意味であるとすれば、弟子の一人であった熱心党のシモンと同じように過激派出身の弟子ということになります。そんなことも手伝って出身地や思想的な背景から、イエスを裏切る動機について様々な憶測が生まれました。しかし、残念ながら、福音書はユダの裏切りの真相について何も語っていないのです。ただ唯一ヨハネによる福音書だけが、ユダの裏切りの背景にあるものを記してこう言っています。
「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」
ちょうど先週学んだ記事と並行する出来事を記した箇所です。ユダはイエス一行の会計をあずかる能力を備えていながら、その能力を忠実に用いないで、中身をごまかすことに能力を使っていたというのです。そのことはきょうの箇所に描かれているユダの姿に共通しています。
「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」
しかし、イエスが引き渡され十字架にかけられてしまう計画は一方では人間の浅はかな行動によって引き起こされるのですが、しかし、福音書は同時にこのことが神の深い計画の中にあったことを示します。過越の食事の準備をするためにイエスの指示を仰ぐ弟子たちに、イエスはこうおっしゃいました。
「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
イエスは受難の出来事全体を「わたしの時」と理解し、正にご自分の時が近づいたことを知っておられたのです。そして、最後の晩餐の席上で弟子たちにこうおっしゃいました。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」
しかし、イエスはご自分のご受難が神の深い計画であることを述べつつも、ユダの責任をまったく問わないとおっしゃるわけではありません。その言葉の直後に、続けてこうおっしゃいました。
「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」
この言葉をおっしゃる時も、またそのあとも、イエスは決してご自分を裏切る者がユダであるとは名指しされないのです。ユダの責任が重いことは否定できません。しかし、ことに及ぶ前であれば、いつでも考えを変えることができたはずなのです。
しかし、このイエスの忍耐と寛容にもかかわらず、ユダは平然と「先生、まさかわたしのことでは」と口にしてしまったのです。その罪の責任はまぬかれることはできないでしょう。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは「それはあなたの言ったことだ。」とおっしゃって、ユダの質問に明確なお答えをしません。名指しで断定はなさらないのです。この瞬間もイエスはユダが悔い改めるチャンスを残してくださっているのです。