2007年7月26日(木)キリストの死の備え(マタイ26:1-13)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

イエス・キリストの十字架の死をまったく人間的な視点からだけ解明しようとすると、それはとても政治的な臭いのするむごたらしい死ということになってしまいます。もちろん、十字架刑そのものが刑罰の中でも際立ってむごいものでしたから、どんなに頑張ってもそれを美しく描くことなどできないものです。
イエス・キリストを十字架で処刑することを願った人々には、このむごい死に方こそが、キリストの活動の終わりを物語る出来事であり、その活動に終わりをもたらすために、政治的な判断を下したといってもよいのです。
しかし、福音書に描かれるキリストの死はただ単に政治的な争いの狭間で起った事件なのではありません。キリストの死の意味を宣べ伝えるキリスト教会は、ここに神の驚くべき御心の実現を見て取るのです。
きょう取り上げようとしている箇所にも、人間的な側面から見たキリスト処刑のシナリオと、それをはるかに超えた神の計画が同時進行的に描かれていきます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 26章1節から13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、2日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

きょうからマタイによる福音書もいよいよ受難物語と呼ばれる部分に入っていきます。初代キリスト教会で地集会周辺地域一帯を伝道して回ったパウロは、コリントの教会に宛てた手紙の中で、自分が最も大切なこととして宣べ伝えたことについてこう記しています。

「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり3日目に復活したこと」

つまり、もっとも大切なこととしてパウロが伝えたことが、まさに受難物語として、福音書の最後の数章を飾っているのです。というよりも、このキリストの受難と復活を描いた受難物語の長い序章を今まで学んできたといってもよいのかもしれません。

さて、マタイ福音書の26章はイエス・キリストのご自分の死を予告した言葉で始まります。

「あなたがたも知っているとおり、2日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」

イエス・キリストはご自分が死に引き渡されることを今までに三度、弟子たちに話してこられました(16:21、17:22-23、20:18-19)。そのたびごとに、弟子たちはその真意を理解しかねて、キリストを諌めたり、悲しんだり、あるいは、自分たちをキリストの王座の右や左に座らせて欲しいと願い出たりしたのでした。実際、弟子たちはキリストの死の意味を理解できるはずもありませんでした。弟子たちがキリストの死の意味を今は理解できないとしても、その時がやってきたことをキリストは弟子たちに宣言します。
このキリストご自身の死の予告について書き記した後で、祭司長や長老たちがキリストを捕らえて殺してしまおうと相談する場面が記されます。この物事を記す順番は何気ないことのようですが、重要なことを暗示しています。人間的な目で歴史を書き記すとすれば、祭司長や長老たち、つまりユダヤの最高法院の議員たちに、イエス・キリストを逮捕して、処刑しようとする動きがまずあって、その不穏な動きをイエスが察知して、自分の死期が近いことを弟子たちに告げた、とする方が説明としては理解しやすいかもしれません。
しかし、福音書記者が記すキリストの死というのは、ただ人間の計画で動いているのではありません。神が深いご計画の中で予め定められ、人類の救いに必要なこととして十字架での死をお決めになったのです。ですから、キリストの受難は、受身的であるように見えながら、しかし、神のご計画の中でキリスト自らがそのご計画に積極的に従っていっているのです。受難物語は決して人間の計画的な陰謀に引きずられて展開する話ではないのです。

実のところユダヤ最高法院の議員たちの思惑の中では、ユダヤの大きなお祭り、過越の祭りの期間中は混乱を招くからという理由で、計画の実行がためらわれていました。しかしながら、福音書は神の側での計画が着々と進められていく様子を描いたエピソードをその直後に記しています。

イエスがベタニアにおられた時に、一人の女が高価な香油をイエスの頭に注ぎかけたというエピソードが、イエスの逮捕と殺害をためらうユダヤ指導者たちの話の直後に置かれているのです。
高価な香油をイエスの頭に注ぎかけたという出来事は、その場に居合わせた者たちには、無駄使い以外の何ものにも映りませんでした。そんな余裕があるのだったら、その香油を売り払って貧しい人々に施すべきだとさえ弟子たちは思ったのです。しかし、イエス・キリストはこの出来事をまったく違った視点から観ていらっしゃったのです。

「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」

もちろん、この女性は、意識的にイエスの葬りを準備したというわけではないでしょう。そうではなく、イエス・キリストがこの女性のしたことをどう評価なさったかということなのです。イエスによれば、彼女のしたことは葬りの準備以外のなにものでもなかったのです。そのようにイエス・キリストはこの女性の行いを受けとめ、その行いを受け容れられたのです。
イエスを殺そうと計画する者たちは、自分たちの計画がよりよく達成できるために、時をうかがいながら実行をためらっていたのとは対照的に、イエス・キリストはこの女性のしたことの中に神のご自分に対するご計画と使命とを読み取って、自ら死に向かわれたということなのです。
これからマタイ福音書が書き記そうとしている受難記事の全体は、決して不幸な男の結末ではなく、また、権力者の横暴な計画でもないのです。イエス・キリストが自ら人類の救いのために引き受けられた苦しみの物語なのです。