2007年6月21日(木)目を覚ましていなさい(マタイ24:36-44)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

英語圏の名前にグレゴリーという名前があります。歴代のローマ教皇や聖人たちの名前にもグレゴリウスという名前の人が大勢います。この名前のもともとの意味はギリシア語の「目覚めている」「夜通し見張りをしている」という意味の言葉から来ています。そして、このグレゴリウスの名前の由来となった言葉は、まさにきょう学ぶ箇所に出てくるキリストの言葉に登場します。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 24章36節から44節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

終末についての教え扱う時に、ついついわたしたちが一番の関心を寄せるところは、それが一体いつ起るのかということだろうと思います。今までイエス・キリストの終末についての教えから連続して学んで来ましたが、そもそも、キリストが弟子たちに世の終わりについて話し始められたきっかけは、弟子たちの質問にありました。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか」(マタイ24:3)

弟子たちの関心は確かに終末の時がいつ訪れるのか、ということにあったでしょう。また、イエス・キリストが今までお語りになったのも、終末の「時」を弟子たちが見分けられるようにという思いがあったからです。
ところが、きょうの箇所を読むと、イエス・キリストは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」とおっしゃるのです。これはいったいどういうことでしょうか。なんだか肩透かしを食らったような気がしてしまうかもしれません。キリストは今まで終末の徴について弟子たちにお語りになって来ました。そして、「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」とおっしゃって、終末の徴についてのお話を締めくくられたのです。それがいきなりキリストの口から「天使たちも子も知らない」と出てきたのでは、戸惑いを覚えてしまいます。
それで、キリストの言葉の真意を理解するためにはよくよく注意が必要です。
先週学んだ箇所でイエス・キリストがおっしゃったのは、いちじくの枝から夏が近いということを知るという例えでした。春から夏に季節が変わるというのは、厳密に言えばどこかにその境目があるのかもしれません。しかし、普通はどこに季節の境目があるのかというのは、関心の中心であるはずはありません。気温がどんどん上がって、着ているものを薄着にしていかなければ、どこにいてもなんとなく汗ばんでくる。それで、夏が近づいているということがわかれば、ことは十分足りるはずです。夏に備えて半袖を用意したり、帽子をかぶったり、強い陽射しに備えて、紫外線から身を守るような用意を整えられれば十分です。何月何日の何時何分から季節が変わるということを知ったとしてもあまり意味はないのです。
それと同じように、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とキリストがおっしゃったからといって、少しも驚く必要はないのです。終末の時が何年何月何日の何時何分にやってくるということは、知らないというよりも、重要性がないので、従って関心もないのです。キリストが知らないとおっしゃるのはそういう意味なのです。確かに終末それ自体は重要な意味を持っているでしょう。しかし、それがいつ来るのかという正確な時期は興味や関心を抱く必要がないのです。境目がいつかを知るよりも前に、すでにキリストが教えてくださった様々な徴に十分心を留めていれば、終末の近いことは分かるからです。そして終末を迎えるのに必要な備えをするのにはそれで十分だからです。

イエス・キリストはこのことをさらにノアの時代の洪水を引き合いに出して説明してくださいます。ノアの洪水で滅んでしまった人たちは、なぜ滅んでしまったのでしょうか。いつ洪水が起るかを知らなかったからでしょうか。確かに知らなかったからこそ、逃げ遅れたとも言えるかもしれません。しかし、その人たちが滅んでしまった本当の理由は、神の言葉や警告を信じようとしなかったところにあるのです。だからこそ、近づきつつある洪水の日に気がつくことができず、いつもと同じ生活を暢気に送りつづけていたのです。神の言葉を信じ、神の警告に耳を傾けていたならば、洪水の日が近いと気がつくことができたはずです。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」とキリストがおっしゃられるのは、まさに、神の言葉を信じなかった人たちにとって、突如として訪れる破滅の時だからです。しかし、神の言葉を信じたノアの家族にとっては、突如として訪れる破滅の時ではなかったのです。
そういう意味で、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」ということが起るのです。

そこで、キリストはおっしゃいます。

「だから、目を覚ましていなさい。」

なぜ、目を覚ましている必要があるのでしょうか。それは、「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」とキリストはおっしゃいます。
しかし、この言葉には注意が必要です。「いつ帰って来るかわからない」ということと、「帰って来るかどうかわからない」というのとでは違います。帰ってくると約束されたキリストの言葉を信じて待つのです。信じているからこそ、目を覚ましているのです。
ノアの時代の人々が洪水によって滅んでしまったのは、ただ単に洪水がいつ来るか分からなかったからではありません。洪水が「いつ来るかわからない」ということがいつしか「来るかどうかわからない」にかわり、結局「来ないだろう」になってしまったのです。
キリストが再び帰ってきてくださるからこそ、目を覚まして待つ必要があるのです。