2007年5月10日(木)仕える者の勧め(マタイ23:1-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日本では特定の宗教を持つということに対して、強い抵抗を抱く人が多いように思います。その宗教が熱心であればあるほど、その宗教に対して強い抵抗を示すようです。というのも、宗教が持っている独善性というものを敏感に感じ取っているからではないかと思います。もちろん、独善的なものを敏感に感じ取る人が、自分自身の独善性から解放されているというわけではありません。しかし、普通の人が持っている宗教に対する鋭い批判の目を決して侮ってはいけないと思うのです。
きょう取り上げようとしている箇所では、一見、イエス・キリストが律法学者やファリサイ派の人々を手厳しく批判しているように見えます。しかし、ほんとうの聞き手は弟子たちであり群衆たちです。しかも、キリストの発言の意図は、弟子たちや群衆たちも一緒になって律法学者やファリサイ派の人々を糾弾しようと言うのでは決してありません。聞く者一人一人に、神を信じる者としてどう生きるべきかを問うていらっしゃるのです、
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 23章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
先週取り上げたマタイ福音書22章の最後の言葉は「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」というものでした。では、今度はイエス・キリストの側からファリサイ派の人々に対する反論が続くのかと思うと、そうではありません。確かに一見したところ、律法学者やファリサイ派の人々を手痛く批判しているようですが、しかし、直接の聞き手は群衆と弟子たちなのです。しかも、群衆や弟子たちに向かって、律法学者やファリサイ派の人々を敵対視するようにと駆り立てているのでもないのです。あなたがたはどうあるべきなのか、そのことがキリストの話の中心です。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない」
なぜ、そうなのでしょう。なぜ、律法学者やファリサイ派の人々が命じることは守り、その行いには見倣うなとおっしゃるのでしょう。
彼らが言うことをすべて行い守らなければならないのは、彼らが「モーセの座に着いている」という条件のもとにある限りです。モーセの命じることが神の言葉の取次ぎであったのと同じように、モーセの座に着く彼らも、神の言葉を取り次ぐ限りでは聞かなければならないのです。なぜなら、その語っていることの源泉は神ご自身にあるからです。これは今日の教会でも同じことが言えます。神のみ言葉を忠実に語っている限り、牧師の説教には耳を傾けるべきなのです。語る人間がどれだけ立派であるかによって聞かれもし、聞かれもしないというようなことがあってはなりません。神の言葉は神の言葉であるがゆえに聞かれるべきなのです。
しかし、イエス・キリストは続けておっしゃいます。
「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
ほんとうに律法学者やファリサイ派の人々は言うだけ言って自分では実行しない人たちだったのでしょうか。いえ、実際にはそうではありませんでした。むしろ真面目すぎるくらい律法を守ることにはこだわりを持った人たちでした。ただ、イエス・キリストの目から見て、それが返って神の言葉を踏みにじる結果になっていたのです。彼らはモーセの律法を正しく守るためにあらゆるケースを想定して、こと細かく律法の守り方を定めました。たとえば、安息日を守るために出歩くことのできる距離を定めました。たとえ空腹でも安息日に麦畑の麦を摘んで食べてはならないと定めました。細かく規程を定めれば定めるほど、律法が本来求めているものが見えなくなってしまっていたのです。
「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」とはそういうことなのです。神の言葉が求めていないことをたくさん定めては、結局神の教えを無にしてしまっているのです。従って、どんなに自分たちの定めたことに忠実であっても、それが神の求めていることから逸脱しているのであれば、神の言葉を実行しているとはいえないからです。
律法学者やファリサイ派の人々に見倣ってはならない理由はそれだけではありません。律法を守る内面の心さえもイエス・キリストは問題とされているのです。
「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」というのは、神のためでも本人のためでもありません。それは他人の目を意識したものです。「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」その心が、律法を熱心に学ばせ、律法を行なわせているのです。イエス・キリストは、そういう心のあり方は神の教えに従うということと相容れないことだとおっしゃるのです。
では、どうあるべきなのか、どうすることが律法を守ることの根底にあるのか、イエス・キリストはおっしゃいます。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」
律法は神への愛と隣人への愛を教えています。神に仕え隣人に仕えることが中心にあるのでなければ、律法の教えを実践したとはいえないのです。もちろん、自分をアピールするために仕える者になるのだとすれば、それはファリサイ派の人たちと少しも変わることはありません。むしろ、一番偉いお方である神ご自身がわたしたちの救いのためにもっとも低い者となり、仕える者となってくださっているのです。律法の教えを守るということは、この低くなり仕える者となってくださった神の愛に感謝と喜びをもって応えることなのです。