2007年4月19日(木)復活信仰の背後にあるもの(マタイ22:23-33)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

ある仮定された事柄が真実ではないと言うことを示すことを「反証」といいます。苦労して証明できたと思われる事柄でも、たった一つの反証を挙げられることでその真実性が脆くも崩れ去ってしまいます。
きょう取り上げようとしている箇所では、復活の真理性を巡る議論がなされています。復活というものを信じない人々から復活に矛盾する反証が挙げられようとしています。イエス・キリストはそれに対してどのようにお答えになったのでしょうか。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 22章23節から33節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、7人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに7人とも同じようになりました。後にその女も死にました。すると復活の時、その女は7人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

きょうの箇所に登場するのはサドカイ派の人々です。サドカイ派というのはイエスの時代に知られていたユダヤ教の宗派、ファリサイ派、エッセネ派と並ぶ三大宗派の一つです。余談になりますがユダヤ人の歴史家ヨセフスは、この三つに加えて、第四の宗派として熱心党を挙げています。
さてサドカイ派にはエルサレム神殿の祭司階級や特権的階級の者たちが多く所属していました。時の政権と結びついた保守的なグループで、宗教的には文書化されたモーセの律法だけを重んじると言う傾向がありました。ですから、ファリサイ派が重んじたラビたちの伝承や預言書を重んじると言うことはしませんでした。そこから、神学的にもモーセの律法に明らかに記されていないものは受け容れないと言う傾向をもっていたのです。きょうの箇所にも出てくるように、復活や霊魂の不滅、天使、最後の審判といったものをまったく受け容れないグループの人たちでした。
そのサドカイ派の人々が、復活を巡ってイエスに議論を持ちかけてきたのです。
その議論の要点は、律法で命じられている結婚の制度と復活とが相容れないというものでした。もし、復活と言うことが起るのであれば、それは明らかに律法が前提としている結婚制度を危うくしてしまうからです。
モーセの律法によれば、ある既婚男性に子供がなく死んだ場合には、残された妻はその義理の兄弟と結婚し、亡くなった者の名を残すようにと定めています。こういう結婚の形態をラテン語に由来する言葉で「レビラト婚」と呼んでいます。
サドカイ派の人々が持ち出してきたのは、復活と言うことが起れば、このレビラト婚で結婚した妻を巡って兄弟たちが困惑してしまうというものです。サドカイ派の議論からすると、このような混乱が起らないために復活はありえないと言うことなのでしょう。ちょっと合理的に物事を物事を考えれば、復活など起れば世の中混乱こそあれ、ろくなことが無いというのがサドカイ派の考えなのでしょう。
それに、そもそも復活がありえるのであれば、兄弟の名を残すためのレビラト婚という制度そのものが必要ではないはずです。モーセの律法は明らかに復活と言うことを前提にしていません。前提にしていないと言うことはそのようなことが起りえないからだというのが、サドカイ派の主張でしょう。

しかし、そのような議論の前提にあるのは、復活というものが、ただ単に同じ人間の生命の繰り返しに過ぎないという考えです。かつての地上での人生が繰り返され、食べたり飲んだり娶ったりと、何も変わらないという復活論が前提です。そのような復活の是非を論じるのであれば、サドカイ派の主張はもっともなことです。現代人ならもっと違う観点からも復活がありえないことを論じるでしょう。たとえば、今まで死んだ人がすべて復活したらなら、たちまち地球は人口を抱えきれなくなってしまいます。食糧問題や住居の問題、環境もさらに悪くなるに違いないということになるでしょう。
このような復活に対する考え方の浅はかさに、イエス・キリストはおっしゃったのです。

「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」

なるほど、「復活した人間はこの地上で生きている人間と同じに違いない」と考えるのは、聖書も神の力も知らない人間の知恵が考えることです。聖書を通して神の力の偉大さを学ぶ者にとっては、人間の知恵の枠内で考えられることがすべての世界ではないのです。突き詰めて考えていけば、復活を否定する人は復活が信じられないのではなく、復活を可能にする神の力が信じられないのです。復活を可能にする神の力を信じられないのは、聖書を読まないからです。聖書を読んでも信じられないのは、自分の常識の方が神の知恵と力よりも確かであると思い上がっているからです。
復活の世界は娶ることも嫁ぐことも無い世界です。「産めよ増えよ地に満ちよ」と命じられた世界とは違った世界なのです。聖書は「霊の体に甦る」と復活の体のことを表現していますが、霊の体がどういうものなのか、具体的には知る術もありません。イエス・キリストがおっしゃるように「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われていますが、具体的にどんな体が与えられるのはわからないのです。ただ、必要なことはこのことを実現してくださる神の力を知っているということなのです。

さらに、イエス・キリストはおっしゃいました。

「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

確かにそこでイエスが引用した言葉はこじつけのように思われるかも知れません。モーセの前に現れた神は、アブラハムやイサクやヤコブの神であったお方です。将来の復活を見越して「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と現在形でおっしゃったわけではないでしょう。
イエス・キリストがこの言葉を引用されたのは、そんな言葉尻のためなのではありません。
「神は生きている者の神である」とするならば、「復活」ということを当然の前提としなければ「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり続けることはできないのです。神の力は人に再び命を与えてまでもかかわりつづけることを良しとされる大きな力なのです。その神の力を受け入れるならば、当然その結果として生じる復活も躓きとはならないのです。