2007年3月29日(木)イエスこそ隅の親石(マタイ21:33-46)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエスとはどういうお方なのか、何の権威によってどういう使命を果たすためにやってこられたのか、それを教えているのが新約聖書です。そしてその教えを信じているのがキリスト教会です。
イエスはどういうお方なのか、そのことはもちろん、良い意味でも悪い意味でも当時のユダヤの人々にとっても関心がありました。先週学んだ個所でも、ユダヤの宗教的な指導者たちはイエスが何の権威に基づいているのかということを問いただしました。
きょうの箇所ではイエスがどういうお方なのか、そのことが譬え話を通して語られています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 21章33節から46節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
先週学んだ個所では、イエスが何の権威によっているのか、祭司長や長老たちによって問いただされました。しかし、イエス・キリストはその問に直接お答えにはなられませんでした。今日の箇所では、譬え話という形ではありますが、イエス・キリストがどういう権威をもっていらっしゃるのかが語られています。
「ぶどう園と農夫の譬え」と呼ばれるこの譬え話には、ぶどう園の主人と小作人の農夫たちが登場します。神の民であるイエスラエルをぶどう園に譬え、神をそのぶどう園の持ち主に譬えるという手法は、旧約聖書の時代から良く知られていました。例えばイザヤ書の5章も同じように神の民をぶどう園に譬えています。ですから、イエスがこの譬え話を通して何を語ろうとしているのかは、聞き手である祭司長やファリサイ派の人々にはよく理解できたはずです。
ぶどう園の主人は神ご自身です。そして、小作人たちは神の民であるイスラエルです。収穫の時はしばしば神の裁きを譬えています。収穫の時は神の前で申し開きをなすべき時です。神のもとから遣わされる僕たちは預言者たちと考えてよいでしょう。預言者たちの警告を無視して、かえって預言者たちを迫害し、殺してしまう神の民イスラエルの横暴な姿が描かれます。
最後にぶどう園の主人のもとから送られてきたのは、この主人の息子でした。それは言うまでもなく、イエス・キリストご自身を指しています。
その息子は第一に「最後に」遣わされた者として描かれます。それより後はもうない「最後」です。そういう意味で、今まで遣わされて来た僕たちとは重みが違います。
第二に、最後に遣わされて来たのは「息子」でした。僕ではなく息子であるという点で、今までに遣わされてきた者とは重みが違います。そうであればこそこの主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と期待しているのです。
イエス・キリストの権威はお遣わしくださった神ご自身の権威によっていると言う点では、先の時代に遣わされて来た預言者たちと同じです。その権威は神ご自身に由来するのです。「何の権威によってこれらのことをするのか」とイエス・キリストは祭司長や律法学者によって問いただされましたが、キリストはこの譬え話を通してその問に明確にお答えになっていらっしゃるのです。しかし、先の預言者たちとは違って、イエス・キリストは最後に遣わされた者であり、神の子なのです。
この譬え話は、イエスの権威がどこにあるのかということだけを語って終わってるのではありません。最後に遣わされて来た神の子イエスを祭司長や長老たちがどのように扱おうとしているのか、その罪の大きさをも語っているのです。
イエス・キリストは今まで弟子たちに、ご自分が祭司長や長老、律法学者たちの手によって十字架につけられることを予告して来ました。その予告と同じように、この譬え話に登場する農夫たちも遣わされてきた主人の息子をぶどう園の外で殺してしまいます。農夫たちはぶどう園の跡取り息子を殺したことで、ぶどう園が自分たちのものになると浅はかにも考えてしまったのです。
イエス・キリストはこの譬え話を結んでこうおっしゃいました。
「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」
皮肉なことに、そう結論付けたのは、イエス・キリストご自身が最初ではありませんでした。「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」との問いかけに、一足先に祭司長やファリサイ派の人々がこう結論したのです。
「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
そうなのです。皮肉なことに彼ら自身、その罪の重さを知っているのです。
しかし、それにもまして、この譬え話をお語りになったイエス・キリストはご自分についてもっと重要なことを語っていらっしゃいます。
この捨てられ、殺された息子こそ、「家を建てる者の捨てた石」、しかし「隅の親石」となる石であるとの発言です。ユダヤ人の指導者たちはイエスを取るに足りないものと捨ててしまいます。都の外で十字架にかけて処刑してしまいます。しかし、深い神の計画によって人間には不思議とも思えるような仕方で、よみがえられたイエスはもっとも重要な「隅の親石」とされるのです。
イエス・キリストは教会がよって立つべき礎であると同時に、教会の頭でもあられるのです。