2007年2月15日(木)命を献げるために(マタイ20:17-28)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストに対する歴史的な興味というのは、クリスチャンであれば当然わいてくるものです。福音書一つとって考えて見てもそうです。最初に書かれたといわれるマルコによる福音書は、大人になったイエス・キリストのことから書き起こしているのに対して、後から書かれたマタイ福音書もルカ福音書のその歴史をさらにさかのぼって、イエスの誕生にまで興味を広げています。
そうした歴史的な興味は、キリスト伝をどこまで描けるのだろうかという真面目な研究を生み出して来ました。しかし、その行き着いた先は、残念ながら真面目な信仰者の気持ちを少なからず逆なでするものでした。歴史のイエスと信仰のキリストが完全に分離してしまったといってもよいものです。つまり、初代の教会が信じ宣べ伝えた信仰のキリストと、ナザレで実際に活躍した歴史上のイエスとはまったく違うというのです。少なくとも、歴史のイエスにはたどり着くことができないというのです。せいぜいたどり着けるとしても、それは初代教会の信仰が生み出したキリスト像に過ぎないというものです。
その議論からすると、きょう取り上げる箇所はまさに信仰のキリスト像ということになってしまうのでしょうか。
まさにそのとおりだとしても、この聖書に書かれているイエス・キリスト以外に私たちは知りえないのですから、とにかくあるがままに福音書のイエス・キリストを読み進めて行きたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 20章17節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
今、お読みした箇所はだいたい三つにわけることができます。まずはじめに、イエス・キリストによる十字架と復活の予告がなされます。それに続いて、ヤコブとヨハネの母親がイエスに息子たちのことで願い事を伝えます。最後に、それに対してイエス・キリストは何のために神のもとから遣わされて来たのかが述べられます。
最初の部分、つまりイエス・キリストによる十字架と復活の予告の部分から見てみましょう。キリストご自身による受難の予告はこの福音書の中にもすでに二度出てきています。これで三回目の予告と言うことになります。
少し、きょうの箇所に至るまでのことを振り返って思い出していただきたいのですが、お金持ちの青年がイエスの前を去っていった時のことです。イエスは弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃいました。その言葉に驚いた弟子たちもすかさず「それでは、だれが救われるのだろうか」とイエスに尋ねました。そのときの答えは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」というものでした。
イエスは神がどんなやり方で、人間の不可能を可能にするのかをそのとき直接はおっしゃいませんでした。しかし、この福音書全体をとおして言えることは、キリストの十字架と復活こそが、神が人に救いを与えるただ一つの方法であると言うことなのです。イエス・キリストはエルサレムに向かうたびの途中で、繰り返しご自分の十字架と復活を予告していらっしゃいます。
「人間にできることではないが、神は何でもできる」という言葉は、まさに神がお遣わしになった救い主、メシアであるイエス・キリストの十字架と復活にこそその答えがあるのです。
ところで、いままで二度にわたってイエス・キリストはご自分の苦難と復活について予告なさいましたが、二度とも弟子たちにその言葉の真意は伝わりませんでした。初めてこのことをお語りになったときには、ペトロがイエスのこの発言をいさめたとあります。二度目の時も、弟子たちは悲しむばかりで、それについて深く尋ねようとも語ろうともしません。
では、三度目の予告の後はどうだったのでしょうか。はやり、キリストの受難と復活を予告した言葉は弟子たちに正しく受け止められてはいません。それは、弟子たちだけが特別に心が鈍かったと言うことではないでしょう。神が人をお救いになるその方法があまりにも人間の常識を超えていたからです。一体誰がメシアは十字架で死ななければならないと言うことを想像できたでしょうか。
三度目の予告の後、ヤコブとヨハネの兄弟は母親をともなってやってきます。キリストが王座に着くときに、その右と左に自分たちも座らせて欲しいと言う願いを述べるためです。なぜ、彼らはそんなことを言い出したのでしょうか。イエスの復活の予告を聞いて、いよいよ栄光の時が来たとでも思ったのでしょうか。そうだとすると、その前に語られている受難と十字架についての予告はには全く関心がなかったとしか思えません。
これは他の十人の弟子たちとても同じです。他の十人を出し抜いてこんな願いをキリストに願い出るヤコブとヨハネに対して腹を立てるばかりで、キリストのおっしゃる苦難と復活の言葉には少しも耳がいっていないようです。
そういう無理解な弟子たちにイエス・キリストは十字架の上で死ぬと言うことが、どんな意味を持つのかを語って下さっているのです。
「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
人間の不可能は、ご自分を身代金として献げるイエス・キリストの命によって可能とされるのです。