2007年2月1日(木)神にはできる(マタイ19:23-30)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
できることとできないことを知っていることはとても大切なことだと思います。そして、それを受け容れることはとても勇気のいることです。特に人間にできることとできないことを知っている人は聡明な人です。
きょう取り上げようとしている箇所で、イエス・キリストは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」とおっしゃっています。この言葉を受け容れることができる人はほんとうに幸いな人です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 19章23節から30節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』イエスは一同に言われた。『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。』」
今お読みした聖書の箇所は先週学んだ個所の続きです。話の途中からですので、少し前回のストーリーの要約をお話しておきたいと思います。
前回の話には一人の青年が登場して来ました。その青年は人生について深く考えるとても真面目な青年でした。神の前にどう生きたらよいのか、いつも考え、それを行なってきた人でした。しかも、この青年は若い上にお金持ちでもありました。
その彼がイエス・キリストにした質問は「永遠の命を得るには何をしたらよいのか」というものでした。
イエス・キリストの答えを聞いたこの青年は、失意のうちに悲しみながらイエスのところから立ち去りました。イエス・キリストがこの青年に教えた答えはこうでした。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
聖書はイエスのもとから立ち去らざるを得なくなったこの青年のことを「たくさんの財産を持っていたからである」と評しています。
きょう、先ほどお読みした箇所は、この青年が立ち去った後、今度はイエス・キリストと弟子たちと交わした会話が記されています。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
もちろん、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは、金持ちは救われないということではありません。まして、富そのものを否定している言葉でもありません。しかし、ヘブライ語の「貧しい者」という言葉が、「貧しい者とは神以外に頼りとするものがない者」であるところから、やがては「敬虔な者」「信心深い者」という意味合いを帯びてきたことを考えると、金持ちが神の国に入るのが難しいというのもわからないでもありません。なぜなら、人は経済的に豊かになれば、知らず知らずのうちに神に頼らず富に頼ってしまうことがあるからです。事実、先週学んだこの青年は自分が貧しい者になることはできませんでしたし、貧しい者になってイエスに従う道を選ぶこともできませんでした。
ところが、このイエスの言葉は、弟子たちにとっても驚きの言葉として受け止められたのです。弟子たちはイエスの言葉に非常に驚いて言いました。
「それでは、だれが救われるのだろうか」
確かに弟子たちの驚きはイエス・キリストの誇張された表現にもあったのかもしれません。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とは、結局はありえないこととしか思えません。らくだが針の穴を通るのを見たことがある人など誰もいないからです。
さらに、ユダヤ人の一般的な常識から考えて、富があるということは神の祝福のしるしであると考えられていたからです。神からの祝福を受けて経済的に豊かになった人が救われるのは事実上不可能だとすれば、一体誰が救われるのかと驚きを禁じえないのはもっともな話です。
しかし、イエス・キリストはこの驚く弟子たちにさらに続けてこうおっしゃったのです。
「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」
結局のところ、人間の救いというのは神にかかっているということなのです。誤解してはいけないのですが、お金持ちの救いは神にかかっているが、貧しい者の救いは自力で何とかなるといっているのではありません。富んだ者も貧しい者も、神の前に自分を救うような何かをもっているのではありません。ただ、貧しい人はそのことを知るチャンスが金持ちよりも多いという違いはあるかもしれません。
弟子たちの予想に反して、イエス・キリストの答えは「救われない」ではなく「救われる」だったのです。たとえ人間にとって不可能と思われることであっても、神には人間を救う力があるのです。いえ、人間には何ができて何ができないのかを知り、何でもおできになる神の力に頼ることが大切なのです。愛に満ちた神はその力を救いのために働かそうとしていらっしゃるのです。
このイエス・キリストの言葉を理解するためには、このあとイエス.キリストがお語りになったことにも注意を払う必要があります。このあとペトロの発言に促されてしばらくのやり取りが続くのですが、そのやり取りの最後にキリストは「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と結ばれます。そして、その意味を解き明かすために「ぶどう園の労働者の譬え」をお語りになります。このたとえ話については来週詳しくお話する予定ですが、結論を言えばこういうことです。神の救いの恵みは、最初に選民として選ばれたユダヤ人が最初に受け取るのではなく、むしろあとから選ばれた異邦人が先に救いの恵みを同じだけ手にするというたとえ話です。つまり、何でもおできになる神はお金持ちも貧しい人も、ユダヤ人も異邦人も等しくお救い下さるお方なのです。
さらに、その先を読み勧めていくと、イエス・キリストはこのたとえ話をお語りになった後、ご自分の十字架についての予告をなさいます。神が不可能を可能にする救いの方法とは正にこのイエス・キリストの十字架だったのです。神はキリストの十字架によって人間には不可能だった救いを可能にしてくださったのです。