2007年1月18日(木)神の国と子供(マタイ19:13-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「大人の礼拝」「青年の礼拝」「子供の礼拝」…こういった言葉は何の深い考えもなく比較的よく使われています。確かにどんな集会を開催するにしても、大切なことはその対象が誰であるのかということを明確にしておくことです。けれども、どこの教会でもたいてい持たれている日曜日の午前10時半からの礼拝が、「大人の礼拝」であると暗黙のうちに了解されてしまっているのは果たして正しいことなのでしょうか。
その時間、子供たちは意味がわからなくてもただ黙っている時間なのでしょうか。あるいは、静かにできなければ他の場所で過ごすようにと勧められる時間なのでしょうか。あるいは、積極的に大人と子供を分けてそれぞれに礼拝を持つべきなのでしょうか。教会の長い歴史の中で様々な方法が試みられてきたというのは事実です。しかし、また、ここには変えてはいけない根本的な考えがあるというのも事実です。
イエス・キリストは子供と天の国についてどのようにお考えだったのでしょうか。イエス・キリストご自身の教えから共に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 19章13節から15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。『子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。』そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。」
きょうの箇所は、「そのとき」という言葉によって語りだされます。「そのとき」が具体的にどの時であったのかは定かではありません。もっとも普通に前後の文脈を読めば、離縁についての教えをファリサイ派の人々と交わしていた「そのとき」ということになります。もう少し広い文脈からすれば、ガリラヤを去ってエルサレムへ向かう道すがらの出来事です。救いをもたらすためにやって来られたイエス・キリストが、いよいよ最後の大きな務めを果たされる時も近づいていた時のことです。
そのとき、人々は自分たちの子供をイエスのもとへと連れてきたのです。何のために子供たちを連れてきたのかというと、「手を置いて祈っていただくため」でした。手を置いて祈るというのは、確かに病気などを癒していただくために特別にしてもらうことでもありました。しかし、ここでは特別な病を癒していただこうとしてというよりは、もっと一般的な意味で祝福を求めてのことでした。同じ出来事を記しているマルコ福音書では、イエスが手を置いて子供たちを祝福したと記されています。大人たちがイエスから祝福を受けるのと同じように、子供たちにも同じ祝福を受けさせたいと願う親たちの行動でした。
ところが、イエスの弟子たちはこの様子を見て、子供たちをイエスのもとから追い払おうと思ったのです。もちろん、それにはそれなりの理由があってのことでしょう。悪意や意地悪るからというよりは、師であるイエス・キリストを思ってのことだったに違いありません。ただでさえお疲れのイエスを小さな子供たちによってこれ以上煩わせたくはなかったのかもしれません。しかし、それがイエスを思う弟子たちの善意から出たとしても、イエス・キリストの目にはその弟子たちの行動に大きな勘違いがあったのです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
イエス・キリストは「子供たちを来させなさい」と積極的に子供たちを招いていらっしゃいます。その理由は、「天の国」つまり「神の国」がこのような者たちのものだからです。
このような者というのは子供に代表されるような者たちのことでしょう。すでに18章の学びにも出て来ましたが、自分を取るに足りないものと身を低くする小さな者たちのことです。もちろん、その中に子供たちも含まれているのは当然です。そうであればこそ、イエスは積極的に子供たちがご自分のもとへと来ることをお許しになったのです。
もちろん、弟子たちとても積極的に子供たちを排除しようとしたわけではないことでしょう。やがては子供たちも大人になり、イエスの祝福に与る時が来ると思ったのかもしれません。先ずは意味のわかる大人たちにイエスを会わせたかったのかもしれません。しかし、イエス・キリストにとっては、その弟子たちの考えにこそ、神の国の民の資格に対する誤解があったのです。
18章の冒頭で弟子たちは「天の国で誰が一番偉いのか」という議論をしました。そのとき、イエス・キリストからこう教えられたはずでした。
「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
そればかりか、真中に立たせた子供を目の前に「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とさえ教えられたのです。言ってみれば、そのイエスの教えを弟子たちはまだ自分の心にしっかりと受け止めきることができていなかったということなのでしょう。
神の国の民が、老若男女を問わなかったことは旧約時代のときからそうでした。神の国を象徴するイスラエル民族に生まれた者は必然的に神の国の民と考えられていました。それゆえに、神の国の民のしるしである割礼は生まれて間もない幼児に授けられていたのです。けっして成人してからの儀式ではありませんでした。モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地へと向かったのも大人だけではありませんでした。その出エジプトの出来事を覚える過越祭の食事の席には子供たちも同席することが求められていました。
この真理は新約時代のキリスト教会でも変わらないはずです。いつの時代からかは分かりませんが、日曜日の礼拝が「大人の礼拝」と位置付けられていってしまったのはとても残念なことです。もちろん、教会の中には守るべき秩序があることは確かです。秩序が守られるように様々な工夫が必要であることも確かです。しかし、そうした工夫が結果として子供たちを神の国の祝福から締め出してしまっているとしたら、これはイエス・キリストのお心に反することといわざるを得ません。
子供たちをキリストの祝福に与らせるために私たちのなすべきこと、それは「来るのを妨げない」の一言に尽きるのです。