2006年11月30日(木)信仰のないよこしまな時代(マタイ17:14-20)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

クリスチャンの生涯はしばしばゴールを目指すマラソンにたとえられたり、長い旅にたとえられたりしています。その道のりは決して平坦なものではありません。様々な試練に遭い、悩み苦しみが多いものです。讃美歌の中に「信仰こそ旅路を導く杖」という歌詞があります。まさに信仰がなければ途中で挫折してしまいそうです。
きょうの聖書の箇所には信仰のないよこしまな時代を嘆くイエスの言葉が出てきます。それは何もイエスの時代に限ったことではありません。このイエスの言葉を真面目に受け取る必要があるのは今のわたしたちもかわりないはずです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 17章14節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

きょうの箇所は、山から下りてきた3人の弟子たち一行と、山のふもとで帰りを待っていた他の弟子たちの話です。
山の上でイエスと共に過ごした3人の弟子、ペトロとヤコブとヨハネは、イエスの特別な姿を目撃したばかりです。まるで天上の世界にでも行って輝くイエスの姿を見てきたような気持ちだったに違いありません。この世の喧騒をしばし忘れる時を過ごしてきたことでしょう。
しかし、山を降りて人里に近づくにつれて、夢のような世界から現実の世界へと一気に引き戻されるような出来事に遭遇します。それは、無力な他の弟子たちの姿です。病に苦しむ息子とその親とを前に、なす術を失っている他の弟子たちでした。
この父親は他の誰が癒すことができなかったとしても、それほどの失望もなかったことでしょう。事実誰も治すことができなかったからこそ、きょうまで苦しんできたのです。もはやこの世の誰にも期待することすらしなかったはずです。しかし、悪霊を追い出す権威をいただいて、しかも、今までは成功の実績を持っていた弟子たちに対しては別でした。期待していたのです。期待していた分だけ失望も大きかったのです。こともあろうに他の弟子たちは何もできずに立ちすくんでいるのです。
イエスが山から下りてくるや否や、病気の息子を抱えた父親はすかさずイエスに訴えでます。

「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」

「治すことができませんでした」と訴えるこの父親の心は失望に満ちています。それに対して、すかさず答えたイエスの言葉はこうでした。

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

そもそも、この言葉は一体誰に対する言葉なのでしょうか。病気の息子を連れてきた父親に対してでしょうか。それとも、病気を癒せなかった弟子たちに対してでしょうか。それとももっと広くその場に居合わせた人々全員に対してでしょうか。同じ事を記したマルコによる福音書では父親の信仰もイエスによって取上げられています。しかし、このマタイ福音書では病気の息子を連れてきた父親はすぐに場面から姿を消してしまい、主として弟子たちに目が注がれています。しかし、だからといって、山のふもとに残った弟子たちの特殊な問題と考えてしまってはならないのです。「信仰のないよこしまな時代」と言われているように、これは時代に潜む風潮と考えるべきです。そして、その時代というのは2000年前の昔の時代というのではないでしょう。今わたしたちの生きている時代をも「信仰のないよこしまな時代」と考えて、イエスの言葉を真摯に受け止めるべきでしょう。

さて、マタイによる福音書では、あとからイエスのもとへ密かにやってきた弟子たちとイエスの会話に焦点が当てられています。
「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と問う弟子たちに対してイエスの答えは明確です。
「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

しかし、この答えはわたしたちにとっては決して明確な答えではありません。「信仰が薄い」と言われれば確かに反論の余地はありません。しかし、治らない病気、癒されない病気のすべてが信仰が薄いことが原因かというとそうではないはずです。事実、信仰があっても治らない病気はいくらでもあるからです。たとえば、パウロにはサタンから与えられたといわれるトゲがありました。それはどんなに祈っても取り除かれはしませんでした。トゲのあるままで神のためにはたらくことが御心だったからです。
「私の病気が癒されないのは私が不信仰だからだ」と短絡的に決め付けて失望してしまうのはこの箇所の意図するところではありません。
けれども、この箇所の出来事に限って言えば、この子供は事実癒されたのですから、癒されることは御心でした。そして、癒されなかったのは少なくとも弟子たちの信仰の不足によったのです。

では、どんな信仰が弟子たちには求められていたのでしょうか。イエス・キリストは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば」とおっしゃっています。「からし種一粒の信仰があれば山も動く」というのは誇張だとしても、弟子にはそのからし種ほどの小さな信仰もなかったというのです。
「からし種一粒の信仰」が具体的にどういう内容を指すのかということが問題なのではなく、むしろ、からし種ほどの信仰すらもなかったということ、言い換えれば信仰がほとんどなかったという事実が問題なのです。
マルコによる福音書では、同じ箇所が「祈りによらなければ」と言い換えられています。祈りとは神に対して全くの信頼を寄せることです。それすらしなかった弟子たちはどれほど自信過剰だったということでしょうか。自分たちの手で何とかなると思い上がるところに、神の働く余地はないのです。