2006年11月23日(木)エリヤと洗礼者ヨハネ(マタイ17:9-13)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエスがメシア(キリスト)であると信じるのが、キリスト教の信仰です。旧約聖書の民はやがて来るべきメシアを待ち望んでいました。しかし、実際メシアがやってくると、みんながみんな神がお遣わしになったメシアであるイエスを歓迎したわけではありませんでした。
なぜそうなのでしょうか。それはイエスご自身がご自分がメシアであることを秘密にされていたからでしょうか。確かにイエス・キリストはご自分がメシアであることを秘密にしておくようにと、何度も弟子たちにお命じになりました。しかし、ご自分がメシアであることをあからさまに語ったとして、みんながイエスをメシアとして受け容れたかどうかはやはり疑問です。
きょうの箇所には、なぜイエスがご自分がメシアであることを公に語られなかったのか、なぜ弟子たちにご自分の秘密を時が来るまで黙っておくようにお命じになったのか、その理由を解く鍵が隠されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 17章9節から13節です。新共同訳聖書でお読みいたします。。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。。
きょうの箇所は先週学んだ山上の変貌と呼ばれる出来事の続きです。イエスはごくわずかな弟子たちにだけ山の上でご自分の特別な姿をお示しになりました。それは栄光に輝くまばゆいほどのイエスの姿でした。そして、そのとき旧約聖書を代表する人物モーセもエリヤも姿をあらわしたのです。そんな出来事を目の当たりにして山を下る弟子たちとイエスとの会話が記されたのがきょうの箇所です。
イエスはこの特別な出来事を目撃した弟子たちに、「今見たことを言い広めよ」とはおっしゃいませんでした。反対に、ご自分が復活する時まで秘密にして置くようにとお命じになったのです。
確かにその場に居合わせた3人の弟子たちが証言すれば、信じるに価する確かな証拠となったことでしょう。なぜなら、旧約聖書ではすくなくとも2人または3人の証言があれば十分だったからです。そして、その証言によって一気にイエスがメシアであることが言い広められ、受け容れられるようになると考えたとしても、それは全く道理に適ったことだったのです。けれども、イエス・キリストはあえてそれを望まれなかったのです。いったいどういう理由があってでしょうか。
この疑問は福音書の読者であるわたしたちよりも、3人の弟子たちの方がもっと切実に感じたことでしょう。
弟子たちはイエスに言いました。
「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」
こう尋ねた弟子たちの気持ちは明らかです。ここで弟子たちが問題にしていることは、律法学者のそうした見解が一体どこから来るのかという純粋な疑問ではありません。そんなことなら旧約聖書マラキ書に記されているからです。メシアが来る前に預言者エリアが来てメシアの道を備えると教えられていることぐらい、弟子たちだって知っていたはずです。
弟子たちはたった今しがた山の上で栄光に輝くイエスの姿と同時に、メシアに先立って遣わされるといわれている預言者エリヤの姿をも目撃したのです。弟子たちにはますますもってイエスこそメシアであるという確信は強まったことでしょう。そして、エリアが現れたからには、イエスがメシアであることを律法学者たちに論証することはいっそうたやすい状況になったはずです。少なくとも弟子たちはそう考えたことでしょう。
なぜなら、律法学者自身が、エリヤが先駆者として遣わされることを言っているのですから、イエスとともにいるエリヤを目撃したということは、イエスこそメシアであることを説得できる証拠にもなるからです。まさに律法学者を説得できるチャンスの到来ではないでしょうか。弟子たちはそう言いたかったのでしょう。
しかし、そうであるにもかかわらず、イエス・キリストは弟子たちに対して、ご自分がメシアであることを復活の時まで言わないようにとお命じになっているのです。
いったいどういう理由でご自分のことについて他の人々に語らないようにとお命じになったのでしょうか。
この点に関してイエス・キリストには二つの語るべきことがありました。その一つは、弟子たちが山の上で目撃したエリヤは、実はそれよりも前に既に遣わされているということです。それは弟子たちが早くも悟ったように洗礼者ヨハネこそが、メシアに先立って遣わされるエリヤだったのです。
それならば、なおのことイエスがメシアであることを証していることにもなるでしょう。しかし、肝心なことはその次に言われている点です。
「人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」
問題はエリヤが確かに到来して、メシアの道を備えたという事実なのではなく、そのエリヤである洗礼者ヨハネを人々が好きなようにあしらったということなのです。先駆者ヨハネを好きなようにあしらった彼らが、その後に続いてやってくるメシアを正しく理解できる道理などあるはずもありません。
旧約聖書マラキ書の最後の言葉はこうでした。
「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。」(3:23-24)
確かに洗礼者ヨハネにおいて約束のエリヤは到来したのです。そして、真に悔い改める者にはメシアの道備えとなりました。しかし、彼を好きなようにあしらった者たちはこの預言の言葉がヨハネにおいて成就したことを認めないばかりか、メシアであるイエス・キリストをも好き勝手にあしらい、ついにはメシアを苦難と死へとおいやってしまうのです。
事がすべて成就したときにこそ、弟子たちは真のメシアについて語るべき時が来るのです。