2006年11月16日(木)これはわたしの愛する子(マタイ17:1-8)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「イエス・キリストの姿」というときに、どんなイメージをまっ先に思い浮かべるでしょうか。ある人は十字架の上で苦しまれるキリストの姿を思い浮かべることでしょう。ある人はまぶねの中でスヤスヤと眠るイエスの姿を思い浮かべるかもしれません。また、別の人にとっては父なる神の右で栄光に輝くキリストの姿を思い描くかもしれません。確かにどれもイエス・キリストの姿に違いありません。ただ、キリストが地上を歩まれた同世代の人々にとっては、栄光に輝くキリストの姿を地上のイエスの姿から思い描くことは中々難しかっただろうと思います。
きょうの箇所には栄光に輝く姿のキリストが描かれます。それも、この地上にありながら、姿を変えるキリストです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 17章1節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

6日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を3つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

きょうの箇所はいわゆる山上の変貌と呼ばれる有名な箇所です。キリスト教美術でもしばしば絵画のテーマとして取上げられるほど、キリストの生涯の出来事の中でなじみのある場面です。
まずここで第一に着目したいことは、この山上の変貌という出来事が、イエスをメシアとする弟子たちの告白や、イエス自身によるメシアの使命についての予告といったメシアに関わる一連の記事の直後に置かれているという点です。
確かに後から人為的に割り振られた章では、ここから新しい章が始まっているために、直前の章で描かれたこととの関連を見落としてしまいがちです。しかし「6日の後に」という書き出しは、この山上の出来事を読む者に、その直前に書かれた事柄をたえず思い起こさせます。決して新しい章のはじめにいきなり「6日の後に」という言葉が来るのではなく、イエスこそメシアであることをペトロが告白し、イエスもメシアの使命が何であるかということをあからさまに弟子たちに語り始めたその一連の出来事の流れの中で、山上の変貌の出来事は語られているのです。

さて、弟子たちがそれまでに知っていたイエスの姿は、他の人間と何も変わることがないイエスの姿でした。もちろん、イエスの数々の御業はイエスが普通の人間とはちがった存在であることを物語っていることは否定できません。しかし、どんなに奇跡の御業を目の前で目撃したからといって、弟子たちの目に映っていたイエスの姿は、やはり普通の人間と何一つ変わらない外見のイエスでした。
しかし、それにもかかわらず、イエスこそメシアであると告白したペトロたちの信仰は肉の目を越えたものであったといえるでしょう。イエス自身の言葉によれば、それはまさに人間ではなく天の父が啓示してくださったことに他なりません。けれども、その彼らでさえ、苦難のメシアの姿を想像することなどできませんでした。まして、それに続く復活のことなど耳にも入っていません。
その彼らに、イエスはご自分の輝く姿をお見せになったのです。それは復活の後に栄光に輝くキリストの姿であると同時に、肉体をまとってこの世に人としてお生まれになる前から持っていた栄光の姿でもあると言えるものです(フィリピ2:6-11参照)。
そのような栄光に輝く姿を目撃したペトロは、後にその手紙の中でこう記しています。

「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(2ペトロ1:16-18)

さて、栄光に輝くイエスの姿をペトロたちが目撃した時、モーセとエリヤが登場して、イエスとともに何かを語り合っていたと記されています。残念ながら何を語り合っていたのかはマタイ福音書には記されません。ルカ福音書には「エルサレムで成し遂げようとしておられる最後について」3人は語り合っていたと書かれています。それはいいかえるならば、あの時から弟子たちに語り始めて言われたこと…「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活すること」…このことについて語り合っていたということでしょう。
そういう意味で、山上の変貌の出来事は、前の章で描かれたメシアに関わる使命と切り離すことはできないのです。苦難のメシアと無関係に描かれる栄光の姿では決してないのです。

さらに大切なことは、一連の出来事を締めくくるように天からの声が聞こえたということです。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」

この言葉はイエス・キリストが洗礼を受け、聖霊が鳩のようにご自分の上に下ってくるのをご覧になったとき聞こえてきた言葉を思い起こさせます(マタイ3:17)。イエス・キリストが洗礼を受けられた時にはメシアの使命がどのようなものであるのかははっきりとは語られていませんでした。しかし、今は、イエスの口を通してメシアの使命があからさまに語られるようになったのです。そのメシアであるイエスは十字架の苦難を体験し、命によみがえるメシアです。そのメシアであるイエスを栄光に輝かせ、そのメシアであるイエスを、天の父なる神は「わたしの愛する子」として肯定されたのです。ここにこそ山上の変貌の出来事の大きな意義があるのです。