2006年11月9日(木)弟子としての生き方(マタイ16:24-28)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「キリストの弟子」といえば、最も狭い意味ではいわゆる十二弟子のことを言います。しかし、使徒言行録の中ではイエス・キリストを信じ、洗礼を受けた人たちは皆、キリストの弟子であるといわれます(使徒言行録6:1)。きょう学ぼうとすることは、直接的には十二人の弟子たちに対してキリストがおっしゃったことがらです。しかし、そこで言われていることは「わたし(イエス)について来たい者」に対してのお言葉です。キリストに従おうと思う者であれば、誰でもがここに記されている事柄を真剣に考えなければなりません。言ってみれば、真の弟子となるための指針がそこには記されているのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 16章24節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

前回の学びでは、まことの救い主であるメシアがどんな使命を帯びていらっしゃるのか、ということをイエス・キリストご自身の言葉から学びました。今回はその救い主であるメシアに従おうとする弟子たちのあるべき姿が教えられています。まことの弟子とはどうあるべきなのか、イエス・キリストはご自分の使命を明らかにされた後、弟子たちにお語りになっているのです。
先ほども冒頭で述べましたが、このキリストの言葉は狭い意味ではそこに居合わせた十二人の弟子たちに語られた言葉です。しかし、そこでイエス・キリストがおっしゃっていることは「わたしについて来たい者」についてのお言葉です。それは何も十二人の弟子たちに限って、さらにその中から厳選して「わたしについて来たい者」を峻別しようとしていると取る必要はないでしょう。むしろ同じことを記しているマルコ福音書は「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」と記していますから、この言葉は十二弟子ばかりではなく、イエスに従う群衆たちにも語りかけられた言葉なのでしょう。そう理解してこそ意味のある言葉です。つまり、既にキリストの弟子となった者も、また、これからイエスに従おうとしている人たちも、イエス・キリストについて来たいと願うすべての人が耳を傾けるべき言葉なのです。
イエス・キリストはご自分に従ってこようと願う者に三つのことを命じています。「自分を捨てること」「自分の十字架を背負うこと」そして「キリストに従うこと」の三つです。
「自分を捨てる」ということは、ただ単に自暴自棄になるということではありません。この場合の「自分を捨てる」とは「自分を否定する」ことです。キリストの弟子として自己を否定することが求められているのです。自己否定というのは、ただ単に「自分は取るに足らないつまらない人間だ」と自分を卑下するということではありません。自分が自分の主人であることを否定することです。キリストを主と仰ぎ、このお方のあとについていくということは、自分が自分の主人であることの自己主張をやめることです。自分を自分の手の中に握り締めて、キリストに明渡さない態度をやめることです。わたしはもはやわたしの主人でさえないことを認めることです。言い換えれば、キリストを信頼し、キリストにすべてを明渡し、キリストを自分の主人として持つことです。自分の考えを優先させるのではなく、主の御心がどこにあるのかを最優先に考える生き方です。それが自分を否定し、自分を捨てる生き方なのです。
キリストの弟子となるということは、自分を中心に考えていた生き方を捨てて、キリストを中心に生き方を定めるということです。
第二に、キリストの弟子に求められる生き方は「自分の十字架を背負う」生き方です。十字架というのはその当時もっとも重い刑罰でした。それは反逆罪など、国家にとって重大な犯罪に科せられるものでした。もちろん、イエスがここでおっしゃりたいことは、ローマ帝国に反逆し、神の国のために立ち上がれとい言うことではないでしょう。その点では、ユダヤ教の一派であった熱心党の考えからは区別すべきです。イエス・キリストは決して弟子の熱心が神の国をもたらすとはお考えではなかったからです。
また、「自分の十字架を背負う」という表現をただ単に「重荷を負って」という漠然とした意味に取るべきでもありません。人にはそれぞれ背負うべき重荷があります。それは生まれながらに負っている重荷であったり、人生の途中から負わされる重荷であったり、色々であるかもしれません。しかし、ここでいう「自分の十字架」と「人生の重荷」とを混同してはなりません。人生の重荷は当然、他の人には負えない重荷ですから、その人しか負えないのは当たりまえです。けれども、人生の重荷を主に委ねることは許されています。
ここでイエスがおっしゃる「自分の十字架を背負う」というのは、キリストの十字架と少なからず関連があるものと思われます。この言葉は、まことのメシアの使命としておっしゃられた「メシアの苦難」と関連させて考えるべき言葉です。イエス・キリストご自身、弟子たちが体験するであろう苦難について他の箇所で何度となく語っています。それはキリストの弟子であるがゆえに受ける苦難です。キリストの弟子となることは救いをの喜びを手にすることですが、しかし、同時に主イエス・キリストとともに苦難の道を歩む覚悟をすることです。小さなところでは家族や友人からの誤解、大きなところでは国家による迫害、それらの苦難を当然のこととして受け入れる覚悟です。
そして最後に三番目のこととして主イエス・キリストが求めていらっしゃることは「わたしに従いなさい」ということです。最初の二つのことがらも、結局はここに集約されているのです。自分を捨てることも、自分の十字架を背負うことも、それはキリストに従うためなのです。「わたしについて来たい者は…わたしに従いなさい」というのは、言葉としては当たり前のことを言っているようにも思われるかもしれません。しかし、キリストのあとをただついて歩くのと、「従う」というのとでは大いに違うのです。それは先の二つの命令がその内容を限定しているとおり、キリストに従うことは自分を捨ててキリストを主人とすることであり、キリストに従うことはキリストの弟子としてキリストと苦難を共にすることなのです。それほどに徹底して従うことがここでは求められているのです。

では、そもそもなぜそのような生き方が求められているのでしょうか。そこには逆転的なキリストのお言葉があるのです。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

まことの救いはただキリストだけが私たちに代わって勝ち取ってくださるものだからです。