2006年10月26日(木)天からの啓示の上に(マタイ16:13-19)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教がキリスト教である理由はどこにあるのか、という問題はキリスト教会にとってとても大切な問題です。特に同じ旧約聖書を手にしていながら、ユダヤ教とは違った道を歩みだした初代のキリスト教会にとっては自分の存立に関わる問題です。きょう取り上げようとしている箇所には、弟子のペトロが弟子たちを代表して、「イエス」が何者であるのかという問いに答えます。有名なペトロの告白の場面です。そこには教会が礎とすべき「岩」についてのイエスの言葉が記されています。その「岩」とは何を指しているのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 16章13節から19節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
きょうの場面はイエス・キリスト一行がフィリポ・カイサリアの地方へ行った時の出来事です。フィリポ・カイサリアというのはガリラヤ湖の北方およそ40キロメートルのところにある都市で、ヘロデ大王の息子の一人、フィリポがその王宮をおいた町です。この町がヘレニズム化された町であることはよく知られていることですが、なぜイエスが弟子たちをこの町へ連れてこられたのか、また、なぜ、このヘレニズム化された異教の町で弟子たちにご自分が何者であるのかをお尋ねになったのか、聖書にはその理由が記されてはいません。異教の神々の神殿を背景にして、まことの信仰告白を求められたとも考えられます。しかし、イエスを何者と告白するのかはユダヤ教との違いを意識してこそ意味があると考えると、その告白がもたらす影響の大きさを考えて、わざわざエルサレムからは遠い場所へ離れてお尋ねになったとも考えられます。確かにこれから学ぼうとしている事柄は、神の民であるイスラエルにとって衝撃的な内容であるといっても言い過ぎではありません。
さて、フィリポ・カイザリアでイエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになります。「人の子」という言葉は、ここではイエスがご自分を指してそうおっしゃった言葉です。言い換えれば「人々は自分のことを何者だといっているのか」、そのことを弟子たちにお尋ねになったのです。あなた方自身はどう思うのか、そのことを直接お尋ねになる前に、わざわざ世間の風評をお尋ねになっているのです。
弟子たちによれば「洗礼者ヨハネだ」と言う人もいるかと思えば、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいたのです。いずれにしても人々の評価には共通したものがありました。それは第一にイエスは預言者のように神から遣わされた者であるということです。しかもそれは昔遣わされた誰かになぞらえることができるという共通点を持っていました。
しかし、今までには遣わされたことがないようなユニークな存在であるという認識はなかったのです。神から遣わされてきた者という認識はあっても、それ以上の評価を与える者たちは、弟子たちの知る限りいなかったのです。
そこで、今度はイエスは「あなたがたはどう思うのか」「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」ということをお尋ねになります。世間で言われていることと同じことをあなたたちも言うのか、それとも、ほかの見方をしているのか、イエスは弟子たちに問い掛けていらっしゃるのです。
弟子の一人ペトロの答えはこうでした。
「あなたはメシア、生ける神の子です」
ペトロの答えは必ずしもペトロだけが到達した答えと取る必要はないでしょう。ほかの弟子たちも同じように考えていたのかもしれません。また、ペトロのこの答えを、当のペトロ自身がどれほど深い意味で口にしたのかというのはまた別の問題です。後に見るように、ペトロはこのすぐ後でメシアについての誤った考えをイエスから指摘され「サタン、引き下がれ」と言われてしまいます。
けれども、いずれにしても、このペトロの答えには、人々の風評とは全く異なるものがありました。その一番の違いは、イエスをメシアと告白した点です。メシアとは本来は「油注がれた者」という意味で、そのギリシャ語訳は「キリスト」という言葉です。つまり、ペトロはここでイエスという人物を「油注がれた者」「キリスト」であると告白したのです。確かに「油注がれた者」というのは、油を注がれて任命された職にある者は、王であれ祭司であれ預言者であれ、油注がれた者に違いないのですが、ペトロがここで「イエスはメシアである」「キリストである」と言ったのは特別な意味においてなのです。つまり、聖書に約束された待望の救い主という意味で、「イエスはメシアである」と告白したのです。もちろん、先ほども言いいましたが、どこまでペトロはイエスがメシアであるということの本当の意味を知っていたのかは大いに疑問です。その当時のユダヤ人が抱いていた政治的な意味での救済者であるメシアを思い描いていたのかもしれません。このすぐ後でイエスがご自分の十字架の死について言及されると、とんでもないことだとばかりにイエスを諌め始めたペトロの態度からもそのことが伺われます。
しかし、たとえそうであるにしても、イエス・キリストは、このペトロの信仰の告白を聞いて、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃいます。
このイエスの言葉はとても重要な言葉です。ペトロが自分の言ったことをどう深く理解していたのかということよりも、その言葉がどこから来たものであるのか、そこに目を留める必要があるのです。イエス・キリストはこのペトロの告白は、ほかでもない天の父なる神からの啓示であると指摘されているのです。イエスがメシアであるという告白は、決してペトロの発見でも発案でもないのです。
イエス・キリストは続けてこうおっしゃいます。
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」
教会の礎である「この岩」とはただペトロ個人のことなのではありません。天からの啓示によってイエスをメシアであると告白したペトロさしてこうおっしゃられたのです。教会というものは、イエスをメシアとする天からの啓示という岩の上にこそしっかりと建てあげられていくべきものなのです。