2006年10月19日(木)悪いパン種からの決別(マタイ16:5-12)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

福音書の中には弟子たちがキリストの言葉に対して無理解な態度を顕わにしてしまう場面が何度か登場します。イエス・キリストと間近に接し、奇跡を目の当たりにし、教えを直々に受けていたその弟子たちが、こうも無理解さを顕わにしてしまうのは、ときとして滑稽ささえ感じてしまいます。しかしまた、そんなキリストに近かった弟子たちでさえキリストの言葉を理解できなかったのですから、わたしたちはなおのこと注意をしなければ、キリストの言葉を理解できないのではないかとさえ思えてきます。
きょう取り上げる個所にも弟子たちの無理解さぶりが示されています。その原因を探りながら、イエス・キリストのおっしゃった警告の意味を見てみることにしましょう。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 16章5節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。

先週学んだ個所では、しるしを求めてやってきたファリサイ派とサドカイ派の人々の誤りについて学んできました。そのファリサイ派やサドカイ派の人々をあとにして、ガリラヤ湖の反対側にやってきたのがきょうの場面です。湖の反対側にやってきたのは、ファリサイ派やサドカイ派の教えから弟子たちを引き離すためでもあったのでしょう。イエス・キリストは岸に到着するやこうおっしゃったのです。

「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」

この短い言葉は、いえ、短い言葉であるからこそ弟子たちにはイエス・キリストの真意とは違ったように受け取られてしまいます。弟子たちはこのキリストの言葉を、自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことに対する注意の言葉と受け取ったのでした。
彼らがそのようにキリストの言葉を受け取ってしまった原因は、確かに、キリストの言葉が短くてどのようにでも受け取られてしまうということもあったでしょう。しかし、それ以上の原因が弟子たちのうちにはあったのです。
まず、弟子たちはイエスがその言葉をお語りになった大きな文脈を見逃していたと言うことです。湖を渡る前、イエス・キリストとファリサイ派・サドカイ派の人々との間でしるしを巡る論争がありました。そのことを深くこころに留めていたならば、イエス・キリストがおっしゃろうとされたことを、ここまで曲解することはなかったことでしょう。
それにしてもなぜ、弟子たちはイエス・キリストがおっしゃった言葉の文脈や背景に注意を払わないで、イエスの言葉を文字通りの意味にとってしまったのでしょうか。それは弟子たち自身の関心がどこにあったのかと言うことと深く関わっているような気がします。弟子たちの関心は忘れたパンにありました。確かに旅支度には持参するパンは欠くことができません。そのパンを忘れたとなっては、パンが気がかりなことは言うまでもありません。そんな折にイエス・キリストから「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」などとお言葉を掛けられたとしたら、現実のパンの話とごっちゃになってしまっても無理はないかもしれません。おそらく、弟子たちはイエス・キリストの言葉をこんな風に理解したのでしょう。
「万が一パンを現地で調達しなければならないとしても、間違ってもファリサイ派やサドカイ派の人々からパンを買わないように」、そうキリストはおっしゃりたいのだ、と弟子たちはキリストの言葉を捉えたのでしょう。確かに湖を渡る前に、ファリサイ派やサドカイ派の人々がキリストと対立していたことは、弟子たちも覚えていたことでしょう。だから、イエス・キリストの言葉を聞いたとき、文字通りのファリサイ派やサドカイ派の人々の顔が頭に浮かび、彼らからパンを買うなという意味にとってしまったのです。そして、そもそもは、彼ら弟子たちがパンを忘れたという現実のパンへの関心が、イエス・キリストの教えに覆いをかけてしまったのです。
このことは弟子たちばかりの問題ではありません。わたしたちはあまりにも現実に関心が向かいすぎて、自分たちの関心でしかキリストの言葉を理解しようとしなくなりがちです。パンに関心のある者はキリストの教えを現実のパンについての教えだと誤解してしまうのです。

弟子たちがキリストの言葉の意味を間違って受け取ってしまったのは、彼らの関心がどこにあるのかということばかりではありません。キリストの力に対する低い見積もりも少なからず影響を与えていたのです。すでに二度にわたってなされたパンの奇跡をとおして示されたキリストの力をそのとおり心に留めていたならば、キリストが忘れたパンのことで何かをおっしゃるなどとは考えもしなかったことでしょう。弟子たちは、キリストによってあの時のことを思い起こすように促されているのです。

「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾篭に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾篭に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか」

要するに、信仰の薄さが、キリストの力を目の当たりにしながら、それを心に留めておくことを妨げていたのです。キリストの力に信頼を寄せないところに、キリストの言葉をゆがめる原因があるのです。

さて、ではイエス・キリストは何を弟子たちにおっしゃりたかったのでしょうか。それは文字通りの「パン種」のことではなくサドカイ派・ファリサイ派の教えを譬えて層おっしゃったのです。
イエス・キリストは以前、「パン種」の譬えを用いて神の国を説明されました。その場合のパン種はわずかな量で全体を膨らませる力のあるものとして良い意味で引き合いに出されました。しかし、今回の「パン種」は、わずかな量でも全体に悪い影響を与えてしまうものとして引き合いに出されているのです。
神の言葉に耳を傾けているようで傾けていないその間違った教えに注意をし、決別するようにとイエス・キリストは弟子たちに注意を促しているのです。